迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

本当の“悪”は臆病の別称?!

第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土(どうこえど)を・とらえて・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし
(業務連絡、今月の座談会拝読御書です。詳しくは大白蓮華6月号、または明日以降の聖教新聞の紙面で。)
これは、“辧(べん)殿尼御前御書”というヤツの一文で、文永10年(1273年)9月に流刑地佐渡から鎌倉にいる弟子の辧殿(日昭)および辧殿の知り合いであった尼御前宛に送った手紙とされてます。この手紙の2年前(文永8年:1271年)に始まった念仏支持者による“日蓮一派掃討作戦”で多くの弟子や信徒が退転した。しかし彼女は、そんな弾圧にも屈せずに最後まで信心を貫き通した勇敢な信徒でした。

本分は特に、正法信心の修行を貫く法華経の行者に対して、第六天の魔王(生命根本の魔性)競い起こって、この世(娑婆世界:しゃばせかい)を奪い取らんとして戦いを挑んでくるとしています。しかし、どんな困難に対しても、真っ向勝負で一歩の退かない姿勢を見せてこそ“法華経の行者”だという訳です。
元々この時代には、ある程度仏法は日本中に広まってはいたんですが、根本的な信仰のあり方について誰も知識がなく、それをいい事に僧侶が信徒を“奴隷”化し、時には権力さえも牛耳ろうと画策した時代です。この事に疑問を感じ、宗教…特に仏法において救われなければいけないのは、不幸に喘いでいる庶民であると確信し、それを鎌倉幕府に訴えたのが日蓮である。しかしこの訴えは、多くの念仏者(特に僧侶)の反感を買い、様々な大難(草庵を襲撃されるわ、無実の罪で伊豆流罪になるわ、不当逮捕の挙げ句首をチョンパされかけるわ…)に遭遇する訳である。だが、日蓮自身は決してこんな事で怯む事はなかった。なぜなら、一番救われなかったらいけなかったのは、内乱や疫病で苦しんでいた庶民であり、それを救う手立てを法華経に定めた信念がある以上、その実証を示さないといけなかったからである。
しかし、佐渡流罪となって鎌倉からいなくなった途端に、ここぞとばかりに念仏支持者による信徒弾圧が激しくなり、多くの弟子・信徒が退転したのである。(退転の理由は簡単、殆どが迫害からの保身であるw)だけど、そんなのは覚悟の上で法華経を広めんと“孤軍奮闘”してたのはいうまでもなく、残った信徒も覚悟を決めて謂れなき誹謗中傷と戦ったのである。
でもなんでそこまでして、当時の諸宗の僧侶や信徒が日蓮とその弟子・信徒に対して迫害をしたか?答えは簡単、今までの地位や権威の失墜で為政者の帰依が減れば自分トコの寺院の収入源に繋がるからだ。こう考えればよくわかるんだが、謂れなき誹謗中傷の正体は、それを言い出した輩の嫉妬からくる逆恨みである。
つまり、多くの場合自分より優れたる人材や技能に対して、何の努力もせずに相手が失敗し恥をかくのを待っている意地汚い根性が“魔”の正体であり、せっかくの地位を他の誰かに奪われたくないから、あらぬ方向へ逃げ惑うのである。そういう臆病さを他人に見られたくないから、虚勢を張って威嚇するのである。そう、エリマキトカゲやハリセンボンが襲いかかってくるモンに対してやる行為(身体を膨らませて刺を立たせるとか、顎のヒラヒラを広げて身体を大きく見せようとする行為とか…)と同類なのである。
そう考えると、本当に悪い事やってる輩は、どこまでも庶民を愚弄する。しかし、その末路は惨めなモンである。