迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

卑しいからこそ、相手を妬む。

今日は、勤務先から近いネットカフェからの更新です。日本人に限らずなんか事件が起きると、大概の場合外国人や少数民族のせいにしたがる習性がある。もちろんそれは、過去の歴史のおいて侵略や殲滅の事実がある以上、繰り返される“悲劇”であり、それから自分達を守るために身構える一種の“防御本能”から生まれる行為である。しかし、だからと言って、他民族すべてが害を成す存在というわけではない。忘れては困るが、犯罪に手を染める奴は、どんな民族でも関係無く犯すのであって、“自分達は優秀な民族”という概念から生まれた“存在悪”だという事に気付かなければ、相手が非を認め謝罪しても、存在そのものを嫌うために、相手と同じ罪を今度は自分がやってしまう。これが、“因果応報”の理のひとつである。

相手から見れば、結局は自分もまた“人間”であり他人である。例え親しき友人や家族のモンであったとしても、自分とまったく同じではない。しかし大きなカテゴリーで見れば、同じ人間である。では、どこですべての区別をつけるのか?
年齢や性別、出身地や学歴、信仰する宗派や文化など、様々な要因があるが、決定的な違いは“自分”か“他人”かである。それは、どんな生き物にもある感情であり、そこから分類が始まるのである。ただ、あまりにも単純な部分で共通項があったり、微々たる相違点でも喧嘩するほど複雑でもある。
言ってみれば、自分に無いモンを羨むならば、自分にしかない魅力を引き出す努力をするべきであり、他人を罵ってる暇など無いハズである。だが、常に人間は“自分こそは優秀である”と褒められたい一心で他人を陥れようとする。これが結果的に、自分を傷付けてると知らずにである。
不軽菩薩は、たとえどんなに殴られようとも、或いは物をぶつけられようとも、決して相手を疎んだり恨んだりせずに、「尊き貴方よ…」と言って頭を下げた。それは、誰の生命の根源にも仏性があるという真実を体現するための修行であり、後に釈尊として生まれ変わる基を作ったわけである。ゆえに、どんな挨拶でも相手を思い敬うのであれば、それを実践した方も尊いのである。もしも相手を馬鹿にするつもりならば、必ず自分に対する罵声が飛ぶのは必至である。
どんなに優秀な学歴を持ったエリートであっても、やってることがニートと同じならば、結局は“同類”と見做されてバカにされるのがオチである。逆に、大した人生を送ってなくても、あらゆる経験や知識で哲学を究めることができたなら、その人の方が遥かに尊いと言えよう。