迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

所詮は言い訳です…。

アメリカの上院議員会で、日本政府に対し従軍慰安婦への謝罪を求める決議案が採択された。拘束性が無いとはいえ、他国の議会が日本のやらかした罪を償えと言うのは、かなり恥ずかしい話である。と同時に、今更“謝れ”と言われたところで、“誰が”何をしろというのか。一応念のために言っておくが、コレを言い出したのは日本人ではなく、旧日本兵に拉致され、強姦を余儀なくされた中国や韓国そしてアジア諸国の女性達である。そして、それを盾に散々ODAを要求し、開発という名においての自然破壊をやったのも、それらの諸国(の為政者)である。(そのリベートを取ってるのが、実は日本企業なのが情けない!!)
何が言いたいかというと、せっかく日本人が(個人レベルといえど)謝罪をやっていても、当の“被害者”自身が納得していないどころか、まるで“滅んでしまえ”と言わんがばかりの要求をやってる姿が、オイラ的に“ちっせぇなぁ…”と感じた訳である。

本当に謝罪しても、その肝心な時に当事者がいないと意味がないし、どんなに土下座をしたところで、その姿を見ていないなら無意味である。つまり、心からの謝罪をしたくても、当人自身が“面会拒否”してる以上は、その謝罪が通じないどころか愚弄されるのがオチである。それもまた“因果応報”の理でもあり、それ故に互いを本当に理解するまで苦労する訳である。しかし、本当の意味で“謝罪”とはどういうカタチなのだろうか?
どんなに相手を思い行動してるつもりでも、それが“空回り”な結果でしかないなら、最後はどっかで手抜きになって堕落する。助けてほしい時に、誰も助太刀に来ないのは、自分が誰かを助けずに放置した報いである。それと同じである。逆に言えば、どっかで気付いてあげられれば、自分達が思いもよらない“恩返し”を受ける事がある。某掲示板で有名に話に、トルコ人親日ぶりを示すネタがある。明治時代、演習中のトルコ海軍の戦艦が紀伊半島沖で沈没した際に、南紀勝浦の漁師達が総出で救助にあたり、コレが縁で湾岸戦争の際に逃げ遅れた日本人救出にトルコ軍が出動した話なんかがそうである。つまり、こういうのを周辺諸国は期待してるのであって、金銭的な援助や支援を求めてるのではない。
コレを勘違いしてるのが、実はこの国の政治家であり、官僚なのである。だから国民から非難され、支援してくれるハズの財閥系企業からも総スカンを喰らい、在日外国人にまでバカにされる始末なのである。
どんなに誠実な性格でも、相手は“その瞬間”の部分しか見ない。だから、どんな態度を取られても仕方がないと言い聞かせ、襟を正して自分の立ち振る舞いを改めるしかない。どこで見てるかわからないなら、なおさらである。表面を取り繕ったところで、いずれ何らかのカタチでボロが出る。そうならないためにも、時として“素直な自分”を見せる必要性がある。それに対して寛大になれない神経質な人間には、それなりの態度で臨むのがベターだ。言い訳よりも、“優しい嘘”がつける人間の方が、好感度が持てる…可笑しなモンです。所詮は“言い訳”でしかないのに、そういう態度にダマされる。なんだかなぁ…と、オイラは思うんです。