迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

地域格差と生活保護の話。

給与体系や職種等にもよるが、昨今叫ばれてる“賃金の地域格差”とは何か?もっとも、都会と田舎じゃ“職業選択の自由”の意味も変わるし、収入源も、労働力なのか収穫物なのかで差ができるのは当然だと思う。しかし、“都会だからみんな金持ち”という考えや、“田舎だから自由がない”という思い込みは、どっからでてるのか?すべてはマスコミの情報だけに踊らされた哀れな姿であり、自分から打開策を考えない事が起因だと、オイラは思ってる。その結果、都会には労働や学習する意欲のないニートが溢れ、そういう連中に希望を与えないどころか職業訓練すらやろうとしない企業ばかりが威張り散らし、都会ですら低所得に喘いで消費者金融闇金業者に手を出して、落ちぶれるバカが増える訳である。

以前にも書いたが、物事とは、誰がどんな状況にあっても、ハンデとしては同じである。身体に障害があろうとも、感覚に明らかな差があろうとも、それを活かすか殺すかは本人次第である。生活保護を受けてる人の大半は、本来なら何らかの職業に就いて貧乏生活から脱却したい訳だし、できれば自立したいと願ってる。が、中には、国や自治体の制度に甘え、むしろニートである事を“満喫”してるバカがいる訳で、こういうのがいるせいで、本来生活保護を受けないとマズい人々が救われない状態のまま世間から消え去ってしまうのである。しかもそういう“反則”をやってる者が、一部の代議士や官僚と繋がってるモンだからタチが悪い。
当然それは、農業や漁業でも同じで、国内自給率を上げるには、国や自治体の保護制度に頼るだけじゃなく、自分達から打って出るくらいの“産業改革”が必要である。例えば、自分達が丹誠込めて作った作物のネット販売や、生協や地元スーパーと提携を結んで作物の安定供給に務めるとか、養殖技術を応用した釣り堀を開設するとか、生産過多で調整が必要になった作物を利用してバイオエタノールを作るとか…考えようによっては、都会よりも遥かに進んだ生活を手に入れるチャンスを持っていながら、それを実行しないのは、結局“何が起こるかわからない将来”よりも、“今日の食料を確実に手に入れる”術こそがすべてという考えが、全体を支配してるからである。
ロッククライミングのインストラクターが、初心者に登頂法を教える時に、必ず“手元ばかり見ずに、次のルートを予測して上を見なさい”と教える。どんなに手元が安定してるからといって、そこにしがみついているだけでは頂上へはたどり着かない。まして、岩肌に身体をピッタリくっつけたままでは、前に進む事すらできない。御書にも“譬(たと)えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩(あゆみ)をはこびて今日一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき”(業務連絡:新池御書の一文。)とある様に、あと一歩というトコで諦めるぐらいなら、どうして最後まで自分を貫けないのか…そこに、信念の違いが出る。成功する者は、最後まで諦めないし、たとえ自分の代で成就しなくても、後に続く者のためにヒントを残す。格差が生まれる最大の“怨敵”は、自分自身の“事勿れ”な精神の弱さだ。そこに気付くか否かは、基本となる哲学…信仰から成り立つ生き様ひとつ。他人の偉業に感銘できる者は、必ず自分の信念を成就させる事ができる。だが、そういった感覚が無い者は、やがて他人を妬み感謝する気持ちすら忘れ、すべてに嫌気がさして“戦争待望論”を持ち出す。現在の若者にある“心の闇”の正体は、実は大人達が繁栄とともに“捨てた”信仰心ではないだろうか。