迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

昨今の“エリート"考

ここんとこ話題になってるのが、鳥取砂丘の“馬の背”と言われるトコに、某大学の冒険愛好会が“落書き”をしたというニュース。ちなみに何年か前に某おバカ番組でも、ココの別の場所で落書きし社会問題になったが、ニュース画像を見ると、いくらなんでも…なぐらいの“破壊”行為だったのは、いうまでもない。決して元通りになる事はないだろうが、コレは常識がないというよりも、むしろコイツら自身の存在を派手にアピールする“表現の場”がなかったがための話ともいえる。こういうのは、許す許さない以前に、“エリート”の定義が完全に、単なる試験成績で語られる程度の“安物”に成り下がったとしか言い様がない。ドコでそんな学歴が“単なる肩書き”に変貌したのか?

こんなオイラでも、もう10年以上前に三流の女子短大を卒業している。しかし、未だに知らない知識が多過ぎて、現在でも日々勉強である。以前にも書いたと思うが、最終学歴でモノを判断するのは、軽率としか言い様が無い。なぜなら、そのキャンパスライフの間に、どれだけの知識を“習得する術”を身につけたかの話であって、世間に出てその学習姿勢が役に立ってないなら、単なる“ムダ知識”である。言い方を換えれば、中卒でもヒマをもてあそんでは図書館に籠って六法全書を読み漁ったり、巷に流れる様々な情報の真贋を確かめる為に行動を起こせば、それが後に知識となり、人生における豊かな知性を育みだす。
つまり、試験の結果だけが“エリート”の条件ではない。本物は、その後の“行学”(ぎょうがくに)に懸かっている。本来は仏法用語だが、様々な知識を学んで、それに基づいた行動をするのが重要だと説かれる。(本来はその前提として“信心”が必要なんだが…w)その“知識”とは、教科書や論説文だけではなく、社会通念として最低限のマナーとルールの遵守も含まれる。言い方を換えれば、学歴優秀でも人間性に問題があれば、それは“落ちこぼれ”同然であり、成績が落第生でも守るべき法例を遵守してる以上は“クズ人間”ではない。
だから現在の“学歴社会”の正体は、ただ単純に“ブランド名”だけで物事を判断する方が楽だからという、安易な“ブランド信仰”が生み出した産物であり、それを鵜呑みにした社会そのものの堕落を意味する。事実、大学で何を学かは勝手だが、その先の生涯設計において、その学問が役に立つかどうかは、自分次第である。それが理解できずに、自分の子供に無理難題を押し付けるのは、親のエゴである。
教訓:いくつになっても法令遵守ができないヤツは、どんなに高齢でもガキである。