迷馬の隠れ家 はてな本館

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“無冠の哲学者”故に偉大。

こないだのバラエティー番組で、ノーベル賞の話が出て、なんでインドの思想家ガンジーノーベル平和賞を獲らなかったのかという話に及んだ。理由としては、何ともガンジーらしいというか、打診があったにも拘らず受賞を辞退したんだそうな。普通の感覚では“もったいない”と考えがちだが、インドの“お国事情”を考えれば納得の話である。そう、ノーベル賞を獲るという事は、白(欧米)人社会に“屈する”という概念があるインド人…特にヒンズー教イスラム教の僧侶たちのやっかみを買う事になり、中にはガンジーの思想を良くないと感じてる富裕層を巻き込んだ騒動が起きかねないとわかっていたからである。

いつの時代でもそうだが、本来なら世界各国から栄誉ある勲章のひとつぐらいは持っていてもおかしくないのに、なぜかそういう顕彰を嫌う哲学者は多い。それもそのハズ、よく考えればわかるが、ひとつの思想の基になってるのが宗教である以上、その思想を実現させる為に活動してるのであって、他宗派の顕彰機関や異文化の教育機関が(身分・立場を超えて)どんなに褒めても、その事に対するやっかみを持つ連中からすれば、恰好の“標的”になるのは火を見るより明らかである。そうなると、自分が様々な経験から勝ち得た哲学も、そういった輩に踏みにじられる危険性が増える。それと多くの場合、その勲章がアダになり、庶民にとって近寄り難い存在に祀り上げられた挙げ句、真実が語れなくなる。
特にノーベル賞や国連の関連機関からのオファーは、それだけでもあり難いのだが、国連に関して言えば常任理事国の顔ぶれや議会運営に携わるメンバーを見渡すと、とてもじゃないが万国すべてで通用する程の説得力がない。大概が欧米諸国であり、“アジア代表”といっても中国だけである。コレが世界を“管理”してるというから滑稽である。もちろん、国連をバカにするつもりは毛頭ないが、こういう状況だからこそ、中東のテロリストやアメリカの軍需産業に振り回されてしまう訳である。
話が逸れたので元に戻すが、つまりは、世界がどんなに実力を認めても、近所の住人が誤解して妬んでる様では無意味なモンなのである。だから、せっかくの要請も辞退せざる得ない場合もある訳である。
よく、学会の中で“無冠の友”という言葉が出てくる。実際の意味は聖教新聞の配達員に対する敬意の念を表した別称だが、何もコレは配達員だけの“称号”ではない。様々な分野で活躍し、名前こそメジャーにはなれないけれど、その分野における第一人者から実力を認められ、声をかけられる事だってある。そういった“隠れ天才”達にも与えられるのべき称号なのが“無冠の友”という言葉だと考えてくれれば良い。そういう人間に出会えたなら、人生はもっと楽しくなると、オイラは思っている訳である。