迷馬の隠れ家 はてな本館

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サルでもわかる、任用御書学講座w その2

さて、先週は様々な事があってドタバタしとりやしたが、今週もやりますよ。
今回のテーマは“信・行・学”の話。読んで字のごとくなんだが、宗教を信仰する上で重要な修行の姿勢であり、これらがキチッとできない様な態度では、信徒といえども本物ではない。つまり、自分の宗教の事を深く理解し、更に教えに基づいた行動を起こさない様な信徒は、どんなに神社仏閣に御参りしても無意味であり、当然だがどれだけ僧侶や牧師にお布施をやってもムダである。そういうのがバレるのがイヤで、歴史上における免罪符発行や魔女狩り等を信徒に対して行ない、僧侶や牧師が私腹を肥やした訳である。

“信”とは、信受(しんじゅ)とも言い、仏教を信じて受け入れるという意味でもあります。つまりは、自分を信じ、また相手を信じる事から人間関係を構築する基礎であり、宗教も信徒あるいは宣教者(僧侶・牧師等)の言葉を信じる事から始まる訳です。釈尊も弟子で“智慧第一”といわれた舎利弗に対して、“成仏すること”とは“以信得入(いしんとくにゅう:信を以て入ることを得るという意味)”と、法華経で説いています。
次に“行”とは、その信心に基づいて行動を起こすことであり、現実社会で実証を示すためのアクションを指します。言い方を換えれば、自分自身と世間をリンクさせて、様々なカタチに変換し、仏の境涯を自分の中で具現化させることが“行”の心得です。“行”には大まかに、自分の境涯を磨く“自行(じぎょう)”と、他人の仏性を呼び覚ますための“化他(けた)”があり、両方ができて初めて“修行”と言える訳です。つまり、自分のみの幸福を願うだけでも、自分を犠牲にしてまで誰かを守りたいという考えは、結局は独り善がりの自惚れであり、誰をも救えないのです。(オイ、聞いてるか?そこの生真面目チャンw)
で、“学”とは宗教哲学の研鑽であり、学会員だとそれは、日蓮が書いた“御書”を拝読し、また創価学会の三代の会長(牧口・戸田・池田)がそれに基づいて説いた指導が根本となる訳です。だから座談会の席上でも、必ず御書の研鑽を行なう時間があり、それに基づいた活動方針が打ち出される訳です。つまり、正法流布のためには、その法理を正しく学ぶ必要性があり、それに基づいた行動こそが、正しい“修行”という訳です。しかしながら、指導者が邪な考えを持ってたり、自分勝手な理解で満足してる様では、結局宗教の影響力を利用されてしまうだけであり、ともすれば“邪教”として世間から捨てられるのがオチです。
だから一番重要なのが“信”であり、そこから波及する求道心こそが“行”と“学”を促進させる源なのです。つまり、勉強ができないおバカちゃんでも、粗暴で手の付けようのないヤンキーでも、本当の意味で“信じられるモノ”があれば、それがきっかけで更生することだって可能だって事であり、その逆に成績優秀なエリートでも、品行公正なおぼっちゃまでも、世間や家族に対する不信感が増幅すれば、凶暴な本性を剥き出しにする危険性も出るという事。そういうのを学び、自分を律し、人間らしい生き方を模索するのが宗教の本分であり、決して“教えを実践するため”といえど他人を傷付けたり、モノを破壊することは、自分が信仰する宗教を愚弄する行為と同じなのです。