迷馬の隠れ家 はてな本館

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“真心”こそが供養の基本

釈迦仏は・我を無量の珍宝を以て億劫の間・供養せんよりは・末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は百千万億倍・過ぐべしとこそ説かせ給いて候に、法華経の行者を心に入れて数年数年供養し給う事有り難き御志かな、金言の如くんば定めて五勝は霊山浄土に生れ給うべしいみじき果報なるかな
(業務連絡:今月の座談会拝読御書です。詳しくは“大白蓮華”11月号、および聖教新聞11月2日付6面参照)
これは、弘安4年(1281年)9月に南条時光or南条家一族の誰か宛てに送られたとされる(詳しくは不明)手紙で、身延で書かれたモノです。内容としては生活に必要なバックアップ…特に食料での供養を行なってくれた事に対する御礼が記載されていて、また、時期的に日蓮が入滅する前の年だった事を考慮すると、病気療養中である事をカミングアウトした様です。

さて、本文を解説すると、供養に関する話で、徳勝童子(とくしょうどうじ)が釈尊に土の餅を供養した“真心”によって、後に阿育大王(あいくだいおう:アショーカ大王)に生まれ変わったとされる例を引き、釈尊が『自分にどんな物品でカタチだけの供養をするよりも、末法時代に生きる法華経の行者に対して一日でも供養する方がエラいんだよ』と法華経法師本で説かれてる事を述べてます。つまり、広宣流布のために懸命になって戦っている法華経の行者をバックアップする事は、その真心も尊いと賞賛されてる訳です。
この御書が書かれた頃は、ちょうど熱原の法難だの何だのと慌ただしく、日蓮門下の信徒達にも謂れなき誹謗中傷が飛び交ってた時代であり、そういう意味では現在の学会に対して誹謗中傷が絶えない状況と同じだったと言えます。当然ながら貧困と疫病蔓延が深刻化した頃で、人々の心が疲労困憊状態でした。そんな中で南条一族は、なんとかやりくりしもって供養を捻出し、日蓮の生活を支え続けてきた訳です。その師匠を思う“志(こころざし)”を賞賛し、三世永遠の幸福を約束したんです。
ま、ぶっちゃけな話、この御書が出てくるという事は、“もうすぐ公布基金申し込み期間に入るから、準備よろしく!!”の意味合いで指導してる様なモンなんだが、肝心なのは、単なる“事務的な付き合い”なのか“本気で真心を示す”かの差です。つまり、信仰もしてないのに見栄を張って多額の供養をやる事よりも、真剣な気持ちで宗教と共に生きる事が最優先であり、その上で師匠を思いやり守るために尽力する事が重要なのです。だから、“宗教団体”という組織運営上のカンパ(=供養)は、自分自身の信心に嘘をつかない事が絶対条件であり、それが伴わない様な金品授受は、決して“供養”ではありません。
どんな宗教団体でもそうですが、“寄付金”や“供養”は本来、貧しい信徒への生活支援や宗教哲学を学習する機関運営などに使ってこそ意味がある訳で、それを私物化した僧侶や宣教師が身分を傘に信徒を苦しめれば、宗教そのものの意義から“本末転倒”な話になってしまいます。だからこそ、弟子である以上は師匠の“堕落”を許してはいけないのであり、師匠もまた弟子・信徒の思いを裏切らない様、そして弟子が他人に対して傲慢な態度を取らない様指導するのが務めなんです。