迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

誰のために“優しさ”は示すべきか…

まぁ、“あの出来事”以来、今は亡き菫華の君絡みの話が多くなっている訳だが、それだけ競馬ファンに愛された実況アナだったのはいうまでもないし、そんな彼の詳しい話は来月の“My favorite announcer”でやるとして、今日の話題は人間の感情でもっとも理解しにくい“優しさ”について、オイラなりの意見を話させてもらう。
誰かに助けられたり、励まされたりすると、人は相手を“優しい人”と称して尊敬する。けど、本当の“優しさ”とは一体なんだろうか?様々な考え方があるだろうけど、自分が思てるほど、自分が持つ“優しさ”を、果たしてどれだけの人が理解できてるのであろうか。

時として自分が相手に対して施した“優しさ”が、実は残酷な結果を生み出す遠因にもなってる事がある。しかしそれに気付くのは、いつもその相手が本音を自分の知らない他人に打ち明けた後であり、その時に自分がいないがために、謝罪するチャンスすら逸してしまう事がある。
もちろん、その中には自分の病状や家族の事等での悩みも含まれるんだが、問題なのは、相手は“何を望んで”自分に話をしてるのかである。そこを察して、話をする分には良いのだが、時としてそれがわからない事がある。特に、余命僅かな状況で一番話したい人に情報提示できないのは、死んでも死にきれないだろうし、残されたる者も、きちんと話ができなかった悔いが残る。しかし、本当の意味でそういう場合、第三者は何をしてやれば良いか…敢て情報提示を行なわないのもひとつの手だが、“自分が知らないまま”終わってしまったなら、後から来るそのショックは計り知れない。
だが、自分の事を思って敢て何も話さなかったのなら、それは相手なりの“優しさ”であり、それを感じ取って自分の成すべき事に集中する事が、逝ってしまった者に対する何よりもの報いだと思う。と、同時に、相手も遺された自分に対して、そういう“憎悪”を生む原因を作った罪を背負ってしまう訳である。でも、それだけ分の付き合いがあるからこそ生まれる感情であり、それは何をやっても消す事はできない。仮に何らかのカタチでできたとしても、お互いの絆がある以上、どっかで振り返った時に悲嘆に暮れる事になる。
つまり、自分自信が気を使ったつもりでやった行動が、逆に相手を傷付けてしまう事だってあるという事だ。たとえそれが、その時の“最善策”だったとしても、後から後悔する様ではお互い不幸である。だから肝心なのは、たとえ忘却の彼方になっていても、どんなに疎遠になっていても、心のどこかに相手の事を留めておく事が必要だと思う。不意に記憶の片隅で、相手の事を気になった時、それがきっかけで相手の事情を知り、そこで泣き崩れても構わないと思う。勢い余って“バカヤロー!!”と叫んだって良いと思う。それが相手に対しての、今の自分が持ってる感情であり、(相手が気付くかどうかは別として)率直な意見だと思う。