迷馬の隠れ家 はてな本館

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声優と役者の本分とは…

最近、アニメでも何でも、俳優&女優以外のタレントが“本職”の地位を脅かしているというニュースを聞く。しかし、放送の黎明期…特にラジオの民放が相次いで開局する頃は、そういった“区別”はなかった。なぜなら、舞台の演劇だけで喰える状況じゃなかったし、まして戦後の復興期は、芝居を見る事ですら“贅沢”とされていた時代。そんな時に役者も贅沢は言ってられない状況だったのは、歴史を繙けば一目瞭然。だからこそ、“ラジオドラマ”というジャンルの放送番組も存在し、寄席に関しても放送時間内にできる演目を落語家が演じてた訳である。
では一体、この“声優”という職業の正体は何か?答えを先に言えば、要は“役者の卵”である。つまり、舞台俳優を目指す者であれ、映画やTVの“サスペンスの女王”となり得る者であれ、その出発点は、正しい日本語の発音で、声色一つでいろんな役を演じこなす術を学ぶ事である。その為の“実践の場”こそがアニメや洋画の吹き替えであり、ラジオドラマでのやり取りであると考えれば良いだろう。

“声優”というのを大きく分けると、ラジオドラマや朗読をメインとするグループと、アニメや洋画の映像に合わせて台詞を付ける事(いわゆるアテレコ)をメインとするグループに別れる。以前紹介した吉田(勝)アナは後者になりたくて、アナウンス養成学校に通っていて、バイトが転じて競馬実況アナになったのはいうまでもなく、黒柳徹子は元々前者のグループだった。(詳しい経緯は後日に回すが…)つまり、言葉の表現力と声の力加減が合わさって、初めて声優の本質を見ることができると言っても良いだろう。だから、ベテラン声優はひとりで何役も声色を変えて演じ分けられ、決して観客の期待を裏切らない。それがプロとしての誇りであり、それ故にTVとかでは滅多にその顔を晒す事はしない。彼らが顔を晒すとき…それは俳優として舞台やカメラの前に現れるのであって、声優としての部分は、逆に“黒歴史”として封印する事が多い。
昨今のドラマのヘボさ加減は、こういった“言葉だけの演技力”を身に付けずに舞台に上がったり、TVカメラの前で演じているから面白味がないのであり、そういう経験を行かす場所がないからアニメの声優止まりになってしまってる“役者の卵”が職を失ってる訳である。ではそれは、何が原因なのか…?オイラが思うには視聴率に振り回されてるTV局の傲慢な態度が一因といわざる得ない。また、リスナーズポイントが期待できないからと言って、ラジオドラマを作らなさ過ぎたラジオ局にも責任がある。コレは何も、役者に限った事ではなく、アナウンサーとてまた然りである。
以前解説した生田教室では、かつて俳優や女優を目指す役者の卵達と一緒に、アナウンサー志願者が訓練を受けていた。それは、職業的な部分で差はあれど、正しい日本語で話し、その言葉の“演技力”を身につける為に互いが切磋琢磨していったトコと聞いている。同じ様に、本来ならどんな分野のアナウンサーでも、基礎の日本語の“豊かな表現力”を習得した上で、“お国言葉”を使うかどうか考えるべきであり、最初から“標準語諦めましたw”なヤツをアナウンサーというには相応しくない。努力の末にわかりやすい喋り方の一つとして、方言を用いる程度に留めておかないと、最期までファンに悪い影響を与えかねない。そういった事を考えると、逸見アナや菫華の君の“言葉のこだわり”が半端じゃなかったのはいうまでもなかった訳だし、それ故に“愛されるアナウンサー”として、ファンから賞賛され続けられるのである。
残念なのは、そういった“第二の逸見政孝”を見つけ出したくても、それを生み出す土壌…つまり放送業界自身が“視聴率偏重主義”に走り過ぎた為に、折角の逸材を潰してしまう現状を生み出したのである。当然ながら、どんなに良い声質と演技力に優れた声優がいても、それを利用せずに話題性だけでお笑いタレントや“アーティスト”気取りのタレントに職を奪われるという悲劇が起きるのである。ユーザーが本当に求めているのは、話題性やルックスではなく、自分達が思い描く世界観とマッチした声と話し方であって、それが表現できないヤツは、どんなにベテランであってもいらないのである。