迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

やはりTV業界人は、“いっつみぃ症候群”なのね…。

昨日の“オジサンズ11”でもそうだったが、今日は一部のワイドショーで、逸見アナの追悼ネタが頻発していた様である。確かに今年で彼が亡くなって14年が経過した訳だが、未だに未練がましいというか…。ま、かくいうオイラも他人の事を言えた義理ではないのは、このBlogを読みまくってる常連さん(いるのか?そんなヤツw)なら、お気付きかと思う。
特に今年は、菫華の君を亡くしたショックがあまりにも大きく、しかもその存在感に気付かされた時、余計に逸見アナを意識した広瀬アナファンが多かったと思われる。

未だにこうやって、事ある毎に思い出されるという事は、それだけ分存在感が大きかったという事であり、あまりにも惜しい人だった事はオイラでも充分わかっている。しかし、よく考えてほしいのだが、いつまでも逸見アナを(あるいは広瀬アナを)他人に求めても、その“代役”はできても、本人自身に化ける事などできやしない。なぜなら、完全なる“赤の他人”だからだ。もし仮に、化けることが出来たとしても、生前時と同じとは限らないし、まして完璧に復元できても、違和感を感じるのは当たり前である。
だけど、悲しみが深い程、その“別れ”があまりにも衝撃的すぎると、人間はどうしても似てるモノを探してしまう。それ故に、遺されたる者に酷な事を注文してしまう。総じて自分が求める“完璧”を、いつしか他人に擦り付け、最終的には人格すら否定してまでも“あの人”を求めてしまうのである。特にカリスマ性が高かった者程その影響力は甚大で、死後いつまで経ってもその“影”を追い求めてしまう。オイラはそういうのを、逸見アナを失った後のTV業界を指して“いっつみぃ症候群”と名付けている。つまり、死してなおもある存在感に、いつしか“甘えてる”状態が続いてるのだ。
もちろんそれは、ファンも同じ。どっかで踏ん切りを付けなきゃいけないのに、未だに捨てきれない…否、忘れ去りたいのに忘れることのできない“精神的な傷”として、彼らの死を捉えてしまってるからである。だが、それならそれで追善供養し続ければいい訳だが、そのやり方はどうすればお互いの“最善策”と言えるのかは、はっきり言って無いに等しい。だからみんな、精神的な揺らぎの中で迷うのである。
彼らを強く思うから、そして感じるから意識してしまう…だけど、世代交代が順調にいけば、この感情もやがては薄らぐでしょう。でも、その時にTVは、あるいは放送業界はどんな変化をしてるか…それを知る術は、既に彼らが示している。あとは、それをどう活かすかだけだ。但し、彼らはヤラセや捏造など望んじゃいない。どんなに時代が変わっても、誠実で且つ真面目なキャラを保持できる環境であるべきと、草葉の陰で願ってると、業界人は肝に銘じてほしい。