迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

凶悪犯罪と“心の憂い”

先日発生した8人連続殺傷事件しかり、昨日の岡山駅“突き落とし殺人”しかり、どうも自暴自棄というより“疎外感”からの犯罪が頻発してる様で。被害に遭われた方にはお見舞い申し上げると同時に、亡くなられた方の遺族にはお悔やみ申し上げます。
で、ここからが本題なんだが、こういう事件が勃発すると、すぐにインターネットやゲームのせいにして、自分達の“生活”を振り返らない大人…というより親が多い様な気がして仕方がないんだが、どうだろう?ゲーム感覚で殺戮を繰り返す背景には、本人でしかわからない心理的な“寂しさ”が見え隠れする。そこには両親や祖父母といった肉親の姿は無く、また、親類や縁者の陰も無い。そう、完全な“孤立感”からの脱却のきっかけとして、最初は微々たる犯罪(落書き〜万引き)だったのが、最終的に“無差別殺人”という最悪の事態にまで発展する訳であり、その理由を、容疑者本人のみに求め過ぎてはいないだろうか。

確かに、行き過ぎた“ヲタ活動”は、周囲に多大な迷惑もかける危険性もあるが、そうならない為には、幼少期から何らかのカタチで両親、あるいは親族の大人と接する機会が必要であり、一緒にいる時間…つまり“家族”という名の集団生活の中で、社会通念を学び成長していく過程があるハズである。が、急速な核家族化と家庭内での役割分担のボーダーレス化が進み過ぎて、母親が“母親”としての役割を放棄し、父親も“父親”としての責務を担わず、その“腹いせ”を我が子にぶつけるという凶行に及んでる始末である。また、無事に小学校入学まで育てたとしても、その後の接し方がマズくて、子供の異変に鈍感になってしまってるのではと、未勝利で経験皆無のオイラが言うのもなんだが、考えてしまう。
つまり、どんな犯罪でも、そこには快楽や充実感なんてのは本当は無いのだと思う。そう、本当に容疑者…否、“子供”が欲しいのは、“自分の存在に気付き、声を掛けてくれる誰か”であって、それが親友であれ縁者であれ、“自分を見捨てない”という確信が持てる存在が必要なんである。だが、誰かの為に傷つく事を恐れ、“見捨てられる”という状況が怖くて、そこから逃げ出す“手段”として、匿名で書き込める某掲示板でデマを書きまくり、ネットゲームにどっぷりハマり、そして目の前の現実に“自分が存在しない”という疎外感から、とんでもない凶行に及んでしまう訳である。
オイラは、そういう気持ちを何度も経験してるからよくわかるが、宗教哲学から相手の“痛み”を知る方法も理解してるから、今までそういった凶行に及んだ事は無い。むしろ、被害者の痛みも加害者の痛みも、知りたくなくても感じてしまう性格なんで、怒りと同時に哀れさも覚えてしまう。そう、現代社会が病んでるからこそ、環境に敏感な子供達は些細な悩みで暴走してしまうのである。
ならば、どうすれば“悲しい出来事”は防げるか…コレといった最善策は無いだろうけど、互いの絆を今一度確かめる意味でも、家族で話し合う事は必要である。それは、些細な愚痴であろうと、つまらないオヤジギャグ連発だろうが関係ない。自分の“位置”を確認する作業は、“一人ではできない”という事に気付いてほしいのだ。話し相手がいないからツラいのではなく、そこに“自分”が存在しないという感覚がツラいのだ。
教訓:“育児=育自”である事を理解し、凶行に及んでまで“自分の居場所”を求める前に、家族という“信頼関係の絆”を今一度締め直そう。