迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

解き放たれたい気持ち…

今日は手短に。最近、様々な自殺方法を考えるバカが多い様で。でも、殺人鬼でも自殺者でも共通してる部分は、何らかのしがらみから“解き放たれたい”という思いである。実のトコいうと、オイラにも思い当たるフシのあるヤツと現在付き合っている。ただ、そいつの“悩み”ってのが、どうも今までやっていた拠り所から“裏切られた”という思いからの迷いであり、それ故の宗教不信に陥ってる。確かに、組織としての“宗教団体”ってのは、裏切り者に対して冷たいし、その矛先は当人だけじゃなくその家族にも及ぶ。が、本来の宗教はそういった“哀れなる者”を救済するのが本意であり、幹部の都合で除籍等するのは本末転倒な話である。
だが、逆もまた然りで、邪な教義だからこそ救われないのであり、自分自身の夢を信ずる強さと、それに対する努力が積み重なって初めて願いは叶うモノである。

確かに、生活の中で宗教は“不要な部分”ともいえるが、逆を言えばそれ故に人間関係がギクシャクするのは、信念の違いだとオイラは思う。親友と思ってても裏切るヤツは裏切る。けど、本当の友達は必ず自分の元に戻ってくる。だって、そこしか拠り所が無いからねw
それはともかく、本当の意味での“親友”とは、どんなに離れようと疎遠になろうと、必ずどこかで自分の事を心配し、また気遣う。そして、どんな困難に立ち向かう時でも、決して自分からは逃げない…そう、最期まで付き合ってやる覚悟がある。その部分が、宗教と同じ部分であり、違う部分でもある訳だ。では、なにが違うか…そう、自分が“自分”から逃げないかどうかを問い質す場所こそ宗教の本尊(礼拝対象)の前であり、そこに自分の誓願と立てるから、生き様が定まり人格が変貌する訳である。
コレを悪用するか否かは、宗教団体(の時の最高幹部)の方針による部分が強いが、どんな宗教でも根本的には“迷える自分”からの脱却を図りたいから修行する訳であり、その過程で降り掛かる“災難”は、人間的な成長を促す試練である。それは、自分が叶えたい願いが壮大なモノであればある程、時として命懸けになる場合もある。が、叶えられた願いは、それ以上の価値を持って輝いて見える。だから尊いのであり、決して他人がバカにできるモンではない。
バカにされ、踏みにじられれば、誰だって悔しいし今までの苦労がバカバカしく感じて仕方がない。が、それを踏み越える勇気こそ本当は大事なのであって、それすら諦めて人生を投げ出すのは、結局自分自身を侮辱してるのと同じである。自分の可能性を信じてるなら、同じ様に信じてくれる“仲間”が必ずいるハズ。だから、自分のヤな部分から解き放たれたいと思うなら、まずは今までの自分を見つめ直す為に宗教哲学を学ぶべきであろう。その為の“先輩”は、いつだって自分の傍にいるのだから…。