迷馬の隠れ家 はてな本館

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何故、他人のせいにしたがるのか?

福田首相の突然の退任…ま、予想済みと言えばそこまでですが、マスコミもヒトが悪いと言いましょうか。とにかく、不安定要素が出ると、たちまち“政権が悪い”とか“政治家が…”とか、酷い時にはオイラ達学会員のせいにして、情報を“バラ撒いている”張本人が責任放棄してる姿は、毎度ながら怒りを通り超えて呆れてますw そもそも、こういった事の発端は、情報を“操作している”マスコミにも責任があって、正しい情報を知りたいと思っているユーザーをバカにしてるから信用を失うのであり、どんなにヤバい状況でも、真実を伝えると同時に希望も与えなければいけないのに、視聴率や販売部数に捕われて、歪曲したネタしかやらないし、それを鵜呑みにしてしまうユーザーを批判してるんだから、余程の偏屈モンである。

では何故、人間は重要な局面での失敗に対して、“自分のせい”ではなく“他人のせい”にしたがるのか?答えは凄く簡単なモンで、要するに“生き延びたい”という本能が、自分より弱い立場の者を蹴落とそうとするのであり、“誰かに褒められたい”あるいは“自分は英雄である”という思いが空回りして、自分の悪事を正当化しようとするのである。つまり、見栄と欲望を制御できないから、結果として己の精神の弱さに負けて、没落するのである。
こうならない為の訓練の場として、宗教哲学を学び、様々な思想に触れて研鑽する機関があるのであって、それを“就学放棄”したモンが批判する筋合いはない。まして、海外での捕鯨反対運動も、自分達の食文化以外を認めようとしない…否、他の食文化を“野蛮”と見下してる時点で間違ってるのであり、海洋民族にとって捕鯨遠洋漁業でのトラブルは、死活問題であるという認識がないから貶すのである。大体、今後の水産資源の枯渇を心配するなら、まず、その捕食者の頂点にいる海獣類の適正捕獲を認めるべきであり、伝統文化と自然の恵みを守る観点からも、過剰な(一方的な)欧米文化の押しつけは止めた方が良い。同じ様に、宗教批判も結局は、相手の信仰の自由を奪う行為であって、相手の信仰の矛盾点を言い合う場を設けるのがスジである。
つまり、“他人のせい”にしておけば、責任逃れもできる反面、自分が同じ様な批判を喰らった時に言い訳ができなくなるだけの話である。逆に、“自分のせい”にしておけば、最初のうちは“真犯人”は逃げ遂せたと思えるが、最後はその事が深層心理に引っ掛かり、延々と苦しむ事になるだけである。そう、苦しいのはその場限りなのに、そこに気付かないから、後々しんどくなるのである。
どんなに英雄になりたくても、どんなに知名度が高くても、それを恥じる精神と、それに胡座をかかない姿勢こそ、真の意味での“人格者”であると、オイラは思っている。むしろ、何でもない事を坦々とこなせる環境が“幸福だ”と感じる事ができる人間が、本当の意味での“王者”だと思う。波瀾万丈だからこそ、苦しい時も“楽しい”と感じる時が来るのであって、その有難味を忘れた時、自分だけじゃなく他人をも傷付けてしまうのである。