迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

ファシズムと宗教

あ〜あ…って感じですねw ま、毎度の事なんでアレなんですが…。以前、“共産主義もある種のファシズム”と説いた訳だが、社会そのものがある以上、大なり小なりの“ファシズム”は存在する。つまり、仲間内でワイワイやってても、“KY”なヤツに対して排除するか態度を改めさす為に懲罰を与える行為がある以上、それが過度になって誰も止められない状況になれば、歴とした“ファシズム”となる訳である。特に宗教は、その教義が古来より厳粛に守られてきた影響もあって、信徒であっても異議を唱えれば、それ故の“迫害”に遭う…つまり、正法広宣流布の下において、本当にその教えが正しいかどうかを検証する必要性があっても、それを取り扱う聖職者の“都合”ひとつで捩じ曲げられると、他の信徒の不安を煽るとして、提案が正しくても“消される”のである。コレに対して、かつて日蓮は“聖職者”として、敢えて真っ向から他宗派に対して問答を繰り広げた訳である。

外部のモンに対して批判はできるが、問題となるのは身内の“暴走”で、組織がデカくなればなるほど、それを効率よく纏めるには、共通のルールが必要となり、コレに従わないとなれば、仲間内といえど“信用できない”として排除される訳である。その“行き過ぎた姿”こそが“ファシズム”の正体であり、そこにあるのは“人間不信”という言葉である。つまり、“友達の友達と云えど、信用できない”という状況が膨張した挙げ句、“何を信じて良いのかわからない”という根本的な迷走が始まり、そして仲間内で“犯人探し”をしてるうちに、本来の存在意義が廃れ滅亡するのである。
組織の中で信用されていないなら、その場を去れば良いのだが、行くアテがない人間にとって、“外の世界”というのは不安で仕方がない。もちろん、そんな“孤立無援な状態”に慣れてるモンにとってはどうってことはないのだが、会社であれ何であれ“組織”に属してたモンにとって、どんな理由があっても放り出される事は死ぬ程不安である。だから、組織が“腐敗”しててもそこから離れないし、ダメになってる事を他人から指摘しても、それを認めない…否、認める事ができないのだ。これが宗教の場合、結果として本来ならどんな教えでも否定されている“戦争”を“肯定化”する原因で、故に差別がなくならないのだ。それは、釈尊の時代でも同じで、釈尊が説いた仏法をバラモン教の僧侶は一切認めなかった。だから、釈尊とその弟子に対して、それ故の迫害を加えた訳であり、その結果、双方ともに多くの“犠牲者”を出した。そしてそれは、キリスト教イスラム教の“聖戦”というカタチで現在も続き、同じ宗派でも小競り合いが続いてる訳である。その事を喝破したのが釈尊自身であり、日蓮もまた然りである。ココを勘違いしてはいけない。“信仰の自由”というのは、つまりは“人間同士が信じ合うこと”がなされて初めて意味があるのであって、特定の宗教団体に属してる事を理由に、相手を毛嫌ってる様では、無意味である。