迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

何時まで“社会のせい”にするんですか?

こないだの徳島での“事件”だが、犯人はネットで火力の強い爆竹を更に改造して、凶行に及んだらしいのだが、あっけないというかバカというか…『狙う相手、間違えてるぜw』って、言ってやりたいっすね。
それはさておき、最近の犯罪に多い“誰でもよかった”という犯行理由、人間不信が極まった姿です。自分以外の人間を拒み、思い通りにならない事に憤慨し、そのクセに相手してくれない事を理由に問題を起こす…何時まで甘ったれているんでしょうか?もちろん、オイラもそんな一人ですがw が、誰だって不満はあるし、凶行に及びたくなる程の憤りだってある。でも、だからと言ってその“責任”を社会や組織に押し付け過ぎてはいないのかな?

昨日も話したが、どんな組織だって大なり小なりの“ファシズム”的な要素はある。が、それらは“共同生活”上における最低限のルールであり、マナーの範疇である。つまり、みんながみんなで好き勝手にやってて良い訳ではなく、互いが“迷惑を掛けない”という暗黙の了解の下でやってる訳であり、そこからはみ出るから注意されたり、処罰の対象になるだけである。問題はそのルールをドコまで“理解”できているかであり、解釈ひとつで意見がバラつくのは当然である。だから、文上だけでなく、そのウラに潜んでいる“落とし穴”を探す事も重要であり、それを基に論議してルール改定を行うのがスジである。
が、現在の状況では、その“ルール”すら守れないどころか、勝手に改竄しては相手を困らせ、挙げ句に被害者と加害者が“逆転する”という不始末まである程。コレじゃ、“誰でもよかった”という犯行理由が、まかり通って当然である。その“責任”を両親だけに迫ってる世論もバカなら、考え無しで煽るマスコミもバカであり、それに踊らされてる“裸の王様”な為政者もバカである。“誰が悪い”じゃない、自分以外の“悪人”などいないのだ。
だからこそ、自律…自らの立ち振る舞いや言動に対して、厳しく律する姿勢が必要であり、それを学ぶ場として宗教哲学を拠り所にしている以上、その中での“修行”がもっとも大事であり、それを破ると師匠から叱られて当然である。宗教団体の本義は、人間的な成熟を促進させる為に哲学を通じて、“信仰”…この場合は人間関係における絆を見出す事であり、その為に民族や地位による差別を払い、“人間らしさ”の価値創造を促す為に、様々な訓練を受ける訳である。当然その中には、他宗派との問答を行う為に、様々な教典を学ぶ事もあるし、他宗の教義からの引用も必要となる。
休話閑題、つまり、自由を求め過ぎて、本当の意味での“自由”を手放した姿こそ、現代社会が抱える闇であり、それを律する為に叱ってくれる“大人”がいないから、他人の不幸を嘲笑うクセに、自分の不幸を笑われるのを嫌うのである。吉田仙人でも、“叱ってくれるファン”がいる事が、今日までの実況に生きるのであって、そういう存在を失った時、本当の意味での“引退”を自らの意思で決断しなくてはならなくなる。その“引き際”を見誤るから没落するのであり、わかっている人間はそれ故に、多くの人々から惜しまれるのである。
今回の連続殺傷事件でも、犯人はおそらく、積年の恨みを晴らしてスッキリしてるだろうが、一番の“ミステーク”をやらかしている。つまり、狙うべき“相手”を間違えている事だ。でもそこには、自分の両親に“世話になってる”という意識がどっかで働いてるからこそ、そして両親を“憎んでいる”からこそ凶悪な犯行をもって、両親に“生き恥”を晒したのだろう。本気で凶行に及ぶなら、狙う“相手”は親であり、師匠であり、自分自身に縁する者でなくてはならない。まったくな他人…つまり自分自身の人生において関係の無い者に対し殺害するなら、その事が原因で自分だけじゃなく多くの“無関係者”までが精神的に苦しむ事になる。それは結果として、寂しさの裏返しであると同時に、“人間不信”故に死んでも死にきれず、亡霊となって彷徨い続けるのである。それがどれだけ苦しいかは、後日、ヒデボーにでも話してもらいましょうかw