迷馬の隠れ家 はてな本館

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“信仰”とは未来に託す事…

どうもここんトコ、“佐渡御書”絡みでのアクセスが増えている。ま、今日は日蓮の誕生日…といっても正確には旧暦でカウントすべきなんで、実際は来月なんだがw という事もあって、もう一度、“御書”を通じて日蓮が言いたかった事を、(僭越ながら)冷静にプロファイリングしてみようと思う。一般的に“宗教”を気嫌うモンの“言い分”を分析していくと、宗教そのものが信じられないモンと、組織というカタチを嫌ってるモンに分かれると思う。前者は宗教そのものに対する誤解が、そのまま残ってるが為であり、更には人間不信の気がある。つまり、“素直になれない”自分に苛立ちを感じながらも、どうすれば良いのかわからないという迷いが、結果として宗教哲学すら“ウザい”と感じてしまう性格になったと考えた方が良いだろう。で、後者は社交辞令での付き合いや、どっかに自分の居場所を確保したいばかりに特定の組織についたものの、本質的な部分が見抜けずに騙され、それ故に不審を抱いた結果、いわゆる“一匹狼”になってしまったケースだ。どちらにしてもそこには、根底的な考えに“自分だけの幸福”を求め過ぎて、我侭になり過ぎている自分に気付いていないという不幸が憑きまとう。

佐渡御書”を通じて、日蓮が言いたかった事…それは、この“御書”を通じて、遠き未来に自分の言葉を信じてくれる者がいる事を信じた上で、それを正しく伝える為には現世の者…つまりは当時の信徒に対して“不惜身命(ふしゃくしんみょう:正法流布の為に、我が人生を惜しまないという意味)”の覚悟で戦いなさいという事だ。もちろんそれは、政権交代の為のテロやクーデターといった“暴力”によるモノではなく、自分のできる範囲での社会貢献を全力で尽くす事を意味してる。逆を言えば、相手が暴力で訴えてもそれに怯まず、黙々と弘教活動に勤しみなさい、師匠であるこの私の様に…と明言してるのである。
コレは何も、日蓮だけの話ではない。釈尊が言うトコの“地涌の菩薩”の定義と同じであり、そこに該当する“地涌の菩薩”とは、釈尊からみて遠い時代の信徒…つまりオイラ達の存在を指した言葉だと考えると、スジが通るのである。なんせ、この“佐渡御書”そのものは、竜の口の法難以降、“師匠不在”という危機に直面した信徒に対して、“人間である以上、死は免れないからこそ、未来を信じて遺されたる者が、師匠と仰ぐ者の遺志を受け継いで行動しなさい”と指導する為に、“開目抄”を簡単に説明し直したモンである。コレを踏まえると、宗教団体の本分とは、教主の説いたる哲学を如何にして後世に正しく伝えるかが使命であり、そのカギを握っているのが“青年”という訳である。だが、一般的な“青年”とは意味が違う。そう、ここでの“青年”というのは、子供や孫の世代を指す。つまり、“未来に託す”とは、その遺志を受け継ぐ子孫達の可能性を信じた上で、それを広く一般に教え説く事を意味してるのだ。コレをもって、本来の“信仰”というモノが成り立つ訳であって、お布施や賽銭はそれに対する“先行投資”として活用してこそ正しい“宗教団体”といえる訳である。
が、悲しい事に、“誰かに褒められたい”とか、“誰かに認められたい”といった気持ちが高ぶり過ぎると、何故か教学そのものが明後日の方向に行ってしまう傾向にある。コレが俗にいう“傲慢さ”や“虚栄心”等の正体であり、そこから自分自身の価値観をも見捨ててしまう様な考えが蔓延する訳である。つまり、宗教哲学に基づいた社会共産主義ならば、それぞれの役割に意味を持たせ、助け合いから本来なら上手くいくハズなのに、その意義を履違えたり、“働いたら負けだと思う…”という様なトンチンカンな考えで権利ばかりを要求すれば、折角の厚遇システムも崩壊して当然である。
言い方を変えれば、宗教を“敵視”した時点で共産主義の考え(プロレタリア思想)は“邪法”と切り捨てて正解であり、逆にロクな社会貢献を果たしていない様な組織が“宗教法人”を名乗るのは、他の宗教団体に対して迷惑である。その為の教育であり、宗教哲学を学ぶ事は、人生において本来なら重要な“教養”であると認識しなくてはいけないのである。それ故に、ある有名なラジオパーソナリティーが、こないだ番組内で吐いた“暴言”は、本人の品格を落とすばかりでなく、スポンサーや放送局の信頼を裏切った行為であるだけに、残念でならない。