迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

今の不幸は誰のせい?

亀井金融大臣のバカっぷりは、以前の“自社連立”時代から変わってない事は、みなさんもご存知の通りw そのバカに投票したヤツ、ちょっとツラ貸せや…と、今更言ってもしょうがないんで、その暴言に対する、明確な答えを示しておこうと思う。先に結論から言えば、このバカの“バカ”たる所以は、あまりにも宗教を憎み過ぎて、“人間愛”の欠落そのものが不幸を招いている事に気付いていない事である。つまり、宗教であろうが国政であろうが、どんな組織にも人間そのものを“信じる”事ができなくなった時点で、滅び逝くのが宿命である…ってことだ。逆を言えば、どんなにダマされ様が、嘘を付かれ様が、バカ正直に“信じる”事を諦めない人間がいる限り、どんな組織も滅びないのだ。

昨今の家族間殺人の背景にも、“血縁”だけの家族の間に“信用”そのものが欠落している事が原因で発生しているのに、それを企業や宗教のせいにしてる時点で、一番の大バカ者であるという事だ。つまり、家族の“温もり”を鬱陶しい(不愉快)と感じるから、どんなに両親が子供の幸せを願って選んだ事でも、子供がそれを感じなかったら、御破産して当然なのである。それは、教師と生徒の間でも、会社経営幹部と社員でも同じ。どんな関係であっても、“未来に託したいこと”という共通の理念の下であれば、どんなに意見が食い違ってても、お互いを“信じてる”が故にひとつになれる。が、ちょっとでも期待を裏切ったり、努力を蔑ろにされれば、当然ながら不信感が広がって当然であり、それが一気に沸点まで来た時に“人間らしさ”というブレーキが壊れてる(あるいは、最初から無い)と、感情のままに暴走するのである。そして、それが怖い故に、だんだん人間を“人間”として扱わずに機械的なモノとして見下す様になるのである。そう、自分が“惨めな他人”になりたくない一心で、“惨めのスパイラル”にハマってる状態なのである。
今回の“ドラクエ9”のネタの中にも、そんな一途さ故の“暴走”で、とんでもない事件に発展する話がある。お互いの意見や気持ちのすれ違いは、仕方ない部分だ。でも、だからといって自分以外の人間の幸福まで切り裂いていいというモノではない。むしろ、何処までの“誰かのため”と思ってやってる事がきっかけで、無意識のうちに感謝されている事だってある事に気付かなければ、すべてが不幸になる。泣きたくなるぐらい、辛い思いをする事もある。でも、それは“自分だけ”の感覚であって、“他人”には伝わるハズもない苦しみである。それでも、なんとかしてやりたいと、関わりを持とうと思ってる人がいる。その差し伸べた手を振り払った以上は、誰も助けにこない事を覚悟し、自分で切り開くしかない。それを勘違いしてるから、中途半端でエエ加減な発言をやっちまう訳である。(だから“小沢の掌”で弄ばれている事にすら気付いていないw)
“絆”というモノは、信頼があってこそ固く結ばれるモノであって、そこには血縁や民族、まして組織や国家などの概念は存在しない。むしろ、それらは後付けの“結びつき”である。どんな生活をしてようと、どんなに離れていても、相手を思い続け、信じ合ってこそ、初めて結べるモノであって、形式ばかりに囚われていては、誰も結べない。どんなに肩書きが立派でも、どんなに学歴が優秀でも、“人間を信じ、愛する”という理念から外れていては、無意味である。逆に、そんな“立派な飾り”が邪魔になる事もある。“素直な自分”になりたいと思うなら、まずは純粋にそういった形式張った関係を、断ち切らなければいけない。それは時として、学歴を捨てる事になるかもしれない。あるいは、今までの“友好関係”にひびが入るかもしれない。でも、本当の“親友”になりたいと思った時、その“真心”を受け止められる自分になりたいと願い、行動しなければ、すべてを失う事になる。その“勇気”を試されている時に逃げるから、不幸が連鎖するだけの話なのである。