迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

嫌な予感が…

ハイチの大地震に、今度はマチュピチュで集中豪雨ですかい。どうなってるんでしょうかね、中南米に被害が集中してる様な…恐らく、クリスマス期に公開された映画“2012”の内容を、まともに信じてる人達がいる様な…あんま考えたくないですな。だって、もしも、その“予言”が的中するのであれば、既に全世界規模での戦争が起きているハズだし、自然災害だけで人類が完全に滅びる事などありませんよ。それを回避する為に、宗教や文化交流というのはあるのですから。

学会員流儀…というか、“御書”に書かれているレベルでの話で悪いが、やはり、人々の心そのものが、悪い方向に淀んでしまってるのでしょうか。いわゆる“三災七難”というモノが発生するのは、“御書”の文言によると、人の心に“鬼”が忍び込むからとあるんだが、オイラ的な感覚で言えば、ある種の“人間不信”が具体化した姿が、それじゃないかと思っている。つまり、自分が人間である事を忘れ、また、人間そのものは自然界の一部であって、勝手な滅亡すら許されていない存在である事を気付いていないから、悲劇は繰り返される…それが不安を喚び、更に悲観的に想像するから、“ダークスパイラル”に堕ちるんじゃなかろうか。
確かに、ネガティブに考え始めると、ポジティブに考える事そのものがバカバカしくなって、却って相手を妬んじまう。しかも、自分と同じ不幸を味わってもらわないと、気分が晴れなくなるというか…ともかく、“自分が不幸”である事に酔いしれてしまいがちになる。コレを180度方向を変えるとなると、相当な苦労をするのは必至である。でも、他人から羨ましく思える自分がいるという事は、恨まれても当然だと思える覚悟がないと、それすら叶わない。“変わりたい”と思う気持ち以上に、“誰かを不幸にするかもしれない”という恐怖心が勝ってしまうと、それ故に安易な方向…つまり、快楽の為の堕落を選んでしまう。
価値感の創造は誰にでもできるが、その価値を決めてしまうのは、あくまでも他人である。どんなに“正義”を唱えても、相手が“邪悪”と考えてしまえば、それがまかり通る、逆もまた然りである。要は、相手の“身勝手”によって、外見上の正邪は決まってしまう。が、根本的な正邪は、時代や文化などが変わっても“不変”である。なぜなら、それによって助かった人もいれば、助けられなかった人もいる。その双方を救済しようと思うと、どうしても利害や価値観の相違などが邪魔をする。ぶっちゃけ、“ちょうどいい”というポイントそのものが見つからないのだ。
ハイチの被災者だって、本来なら商店を襲撃したり救援物資の取り合いなんてする様な人間ではないと思う。が、結局、こういった生死の境に立たされた者は、それ故に地獄を味わう。死んでも悲惨だし、生きてても悲惨である。阪神・淡路大震災を経験してるからこそ言えるのだが、民意云々ではなく、パニック状態での争乱は、生きてて欲しかった人が死に、死にたかった人程生き残るという皮肉な結果が残る。なぜなら、それが“魔”の本性だからだ。自分の願いを打ち砕き、絶望している姿を嘲笑うのが、“魔”が一番好む姿。それを打ち破るには、自分達の中にある“本当の正義”を奮い立たせること。その勇気がある限りは、誰でも立ち上がる事ができる。一番重要なのは、大量の救援物資や多額の資金援助じゃない。被災者同士が声を掛けあい、困難に立ち向かう事だ。“間違った豊かさ”に胡座をかいていれば、必ず同じ様な災難は起きる。“間違った平和”は、やがて人類から笑顔を奪う。“間違った正義”は、いつの日かその罪の重さに自滅する。今、世界中で起こってる災害は、その正邪を喫する為の試練。その“痛み”をどう受け取るかによって、結果は変わってくる。