迷馬の隠れ家 はてな本館

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コミュニケーションの極意は、対等な対話にあり?!

昨日、努兄と平松市長の雑談ラジオ(って、言っていいのかそれw)を聴いてて、ちょっと思った話。コミュニケーションについて、ちょっと熱く語っていた様だが、努兄の発言に、オイラはカチンと来た。それは、今風に言えば“ググれカスw”って事。しかし、勘違いして欲しくないのだが、ググってもわからない事があるからこそ聞いているだけの話であって、図書館や関係各所からの資料を調べただけでわかるなら、誰も話しかけない。つまり、相手の言葉の捉えようによっては、とんでもなく努兄は失礼な事を言ってるのであり、逆に肩書きや地位を日頃から振りかざしているから、どれだけの知識が御有りなのかと聞き質している訳である。そこを“ノーコメント”と答えたなら、ただ単純に、肩書きに奢れて相手を見下してるのと同じである。

創価学会の名誉会長である池田大作の場合、どんな相手に対しても、そして、他愛のない質問に対しても、きちんと答える姿勢を崩さない。なぜなら、肩書きや称号等は、話し相手に対して一番不必要な情報や態度であって、本当に相手が“話して欲しいこと”を考え、見据えた上で、発言しているのである。つまり、どんな名誉学術称号も、有名大学の名誉博士号も、一人の人間相手に対話をするのに、却って邪魔になる事がある訳である。そして、その称号をもって、特定の国々が利用する事を知っているからこそ、対話をするときは、純粋に“普通の人間”として、そして宗教団体の代表として臨まれるのである。故に、多くの著名な学者が尊敬し、信頼を寄せているからこそ、世界中から顕彰や称号をもらえる訳である。逆に言えば、大学教授だからとか、地方都市の首長だからとか、そんなのが本当にエラいのなら、それに似合うだけの“人間対話”を行ってこそであり、そこから行政に必要な事とは何かを考えても遅くはないし、実行可能なトコから始めて順次片付けていくのが、“長の仕事”だとオイラは考える。
コミュニケーションを広げる真の極意は、実は何気ない対話の繰り返しであり、そこに身分や年齢格差等は持ち込んではいけない…つまり、人間同士の対話は、それこそ相手の事を知る為の“勉学”であり、それを嫌う様では、相手に自分の存在を否定されても文句は言えない。つまり、高齢者が若者文化を否定するのであれば、若者も傲慢な高齢者に殺意を抱いてもおかしくない訳であり、逆にお互いが興味を示す分野があるなら、それを共有させてこそ、初めてコミュニケーションが成り立つのである。
ぶっちゃけた話、ヲタナベ国王が小塚にょんや雷犬をハロヲタにしたのも、要は世代を超えたコミュニケーションをやりやすくする為のきっかけ作りであって、共通する話題が存在するからこそ、仕事上でも信頼関係の下でスムーズなやりとりができるのである。コレと同じで、“裸の自分”を、共に生きる“仲間”として見せ合う為に、相手と共通する話題を、どれだけ持てるかがコミュニケーションの上で重要であり、何も知らないのであれば、紙やWeb上での情報を調べるのもいいが、直接問う…つまり、実体験上で学ぶ事も必要となる。ここんトコを忘れて、どうのこうの言うのは、それだけ自分の人格が薄っぺらい事を、他人に暴露してるのと同じである。
だから、対話をする事が重要でも、その機会に恵まれない人の方が多いからこそ、Twitter等のWebを使った“疑似対話”を活用する人が増えたのであって、それを邪見に扱う様では、教養人としてはバカにされて当然である。逆に言えば、本音が聞きたいからこそ、Webやケータイを頼るのであって、自分の声で、言葉で、きちんと相手を見ながら話してくれたなら、こんなツールは、必要ないのである。