迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

宗教不信の行き着く先は…

久々に哲学の話…というか、政治家と国民感情の乖離の“原因”について。単刀直入にいえば、宗教に対する不信感…というより、憎悪そのものが政治倫理を歪めているとしか言い様がない。つまり、与野党とも、確固たる哲学・信念を持たない政治家ばかりで、ぶっちゃけた話、有権者たる国民をも信用していない連中だって事だ。言い方を変えれば、同じ国の住民達なのに、それを信じていないのだ。その精神の歪みとは、一体どこから来るのだろうか?

そもそも、日本人は無類の“宗教アレルギー”体質であり、そのクセして他力本願なクチである。つまり、“手柄は自分、責任は他人w”というご都合主義である。その最たる例が、今回の震災以降の国会の“内輪揉め”である。国民の関心事は、どうやって被災地を復興させ、景気を回復させるのかであり、そのついでと言っては福島県民に申し訳ないのだが、原発に関する後処理の方法である。したがって、誰が首相だろうと責任者であろうと関係ないのであり、そこに絡む利権を貪りたいからと蠢いている連中は、最初から被災者を救済する気持ちなどない。逆を言えば、国民生活よりも自分の利権に固執し、何も見えなくなっちまった連中が、今の政府の“正体”である。そして、原発に関しての責任は、既に東電ではなく国のエネルギー政策の責任者に移っている訳であり、必要以上に“東電叩き”をしている反原発論者は、叩く相手を間違えているバカである。東電を潰したトコで、福島県民を救える訳じゃなく、却って多くの国民を殺す事になりかねない。
休話閑題。つまり、ここ一番で社殿仏閣に参詣して願掛けするクセに、日頃からの信仰心はといえば曖昧であり、むしろ自分がドコの宗教の信徒なのかも把握していないのが現状である。ゆえに、結婚式はキリスト教のチャペルを好み、子どもができると宮参りだ七五三だと神社三昧、葬式・法事は念仏で…って具合に、自分の都合“だけ”でコロコロと信仰する宗教を替えるのは、滑稽な姿である。つまり、学会員流儀でいえば、自分の信念の拠り所が定まっていないから、呪(まじな)い代わりに宗教儀式を使っちまっているという事だ。
オカルト系のマンガでは、ちょくちょく使われる祝詞(のりと)も、基本的には神道系の“お勤め”の一種であり、仏教系に多い真言九字とか天台九字とかも、元々は密教での精神統一の為の掛け声的なモノである。つまり、それを唱えたからといって、他人を吹っ飛ばせる様になるとか、空が飛べるといった超常現象が起きる訳じゃなく、それを唱える事で、自分自身の精神的な揺らぎを落ち着かせるのが本来の目的である。(学会員の勤行・唱題も、基本的にはそれと同じw)つまり、自分の先祖や先人達の思いを汲み、自分自身にできる全てをやり抜く事を誓い、日々の活動に励む為に気合いを入れる…その大事な儀礼こそが、普段一般的にいわれる“お勤め”の役目であって、聖職者と呼ばれる者の“本業”は、そんな信者達の些細な悩みを聞いて、哲学に基づいた指導(アドバイス)を行う事である。ゆえに、偉大なる指導者程、世界的権威ある最高学府からの招聘を受けやすく、また、宗教の枠を超えて尊敬される。政治家がその姿を見て嫉妬するのは、自分の肩書きや過去の栄光に胡座をかいて、他者を見下しているからである。
ゆえに、自分の思い通りにならないからといってギャーギャー騒ぐバカ程、普段から宗教を疎んでいて、勝手に他者を憎んでいる愚か者である。思い通りにならなくて当然。相手だって、自分の存在をウザいと思っている。だから上手くいかない。その精神的なすれ違いが酷くなると、自分の殻に閉じ篭って、自分以外の人間を避けようとする。今の政治家の態度は、まさにコレである。確かに、未曾有の大災害である。だけど、自分の内閣にいる大臣すら信用せずに、口先だけで政治をしてるのは、昨今問題になっているニート以下である。忘れてはいけない、宗教だって、根本は人間同士の信頼関係を基に生ずる哲学がメインであって、それを自分の言葉でどこまで説明できるかが広宣流布の鍵である。そのきっかけとして、同じ悩みを持つ者同士のコミュニティーがあり、それが規模を拡大して方向性を示したのが宗教である。儀礼や儀式なんてのは、実はあまり形式張ったモノは存在しない。つまり、そこんトコは教典や聖書などには記載されていない部分であり、拘る必要のない部分。それを然も、超常現象を起こせる様な触込みをするモンだから、誤解されるだけの話であるw