迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

僻み根性は治らないのか?

いつものTwitterでの書き込みに、若干“お花畑”がいた様なんで相手にしたら…執拗なまでにバカ扱いされたw ま、こっちはそれでも良いのだが、どうも、自分と意見が合わないと気が済まない様である。何様なんでしょうかねぇ…第一、“上から目線”的態度が気に喰わないなら、自分も同じ態度を取っている事に気付かないと…だって、自分は“多数派だ!!”という安易な考えこそが、実は“キモい”って事に気付いてない証拠であり、また、相手の収入が自分より低い可能性だってあるにも拘らず、“金持ちは〜”な解答しかしない。よっぽど心が貧しいんだねw

オイラはいつも、崇峻天皇御書の一文を胸に留めた上で、こういった“貧富の差”に関する問題点に、釘を刺す事が多い。これは、元々は日蓮信徒の中でも、特に血の気が多かった四条金吾に対して送った手紙なんだが、そもそも、この人自身、結構な知者であり、医学…特に薬学に精通してた事もあって、主君からも厚い信頼があった武士なんだが、日蓮の信徒であるが故に、なんだかんだ言いながら、他宗派…特に極楽寺の良観ってクソ坊主の策略によく巻き込まれた人で、だけど信心を捨てずに正義を貫いたとされている、日蓮系宗教団体なら、誰しもが知ってる鎌倉時代の信徒なんだ。で、血の気の多さ…というか、あまりにも正義真が強過ぎて、タマに同僚を傷付ける事もあったらしいのだが、そこんトコを見抜いて諌めたのが、日蓮自身なんだよな。
ま、話が脇道に逸れたが、この御書は別名“三種財宝御書”といって、一番有名な文言が出てくる訳。ま、このBlogの中でも、初期の頃の“あどランアーカイブ”の部分でも紹介してると思うんだが…ま、忘れた人の為にもう一度w

蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり
何度も言うが、物質的な豊かさがあっても、精神が歪んでいたり、使うところを間違えたり、まして守銭奴になる様では、それらの価値は無意味であり、かと言って、どんなに健康で、五体満足でも、やはり精神的に病んでいる様では、それこそ宝の持ち腐れ。つまり、精神的な部分での“豊かさ”に気付かない様な人間というのは、どんなにすぐれた地位にいても、あるいは事業に成功し巨万の富を得たとしても、決して心の底から満足する事なんてない。もちろん、健全な精神で更なる精進を求めるなら、そこんトコは別問題だが、僻み根性で噛み付くバカは、ゆえに物質的な“豊かさ”しか信じようとしない…てか、資源や財源に限界があって、それ以上は無理だと言っても“信じない”から、更なる物欲に走る。つまり、本当は別のモノを求めているハズなのに、そこへ向かおうと努力しない、あるいはその努力を評価してくれないからと勝手に解釈してるから、結果的にて身近な標的…食べ物や物品、更には金銭といった“物欲”の方に走ってしまうのである。
で、金銭的に貧乏でも、心が満たされた“幸福な状態”の人達だっているのに、そこに気付かない人が多いのも、バカとしか言い様がない。なぜって?その人達は一時期、本当の意味で裕福な生活だってやっていたのだが、ある日を境に、本当に“大切なモノ”の意味を知り、絶望して泣いた経験があるからである。その“ある日”とは、それこそ千差万別なんだが、ともかく、その人にとっての“幸せな日々”が、何らかなカタチで崩壊した瞬間…と言った方が良いだろう。そこを境に、みんな気付く事がある。けど、それが訪れていない人は、漠然と流れる日々が、実は日々“大切な時”である事に気付かない。つまり、不幸は無尽蔵でも幸福はその隣にいる…例えば、カレーの横についている福神漬けやらっきょが“それ”だったりするし、豚の角煮やソーセージのお供と言えばからし(マスタード)だし、牛丼や豚骨ラーメンに紅ショウガ…といった感覚。それと同じで、薄幸な人生でも、どん底を味わったからこその“喜び”ってのがあって、それは生涯、強烈なインパクトを帯びて記憶に残る。けど、その他の“喜び”ってのは、何故か記憶に残らない。むしろ辛く苦しく嫌な事の方が、意識してなくても何故か記憶に残り易い。そういうモンです。
昨日亡くなった(と言っても、米国現地時間ですが…)Appleの創業者、スティーブ=ジョブズも、どん底と栄光を味わった人間であり、ゆえに波瀾万丈な生涯であった事はいうまでもない。晩年の大病を患ってまでも、自分の作りたい製品をどんどん開発していった精神は、まさに自分の生命をも削っての事業だったと思う。(そこんトコは、広瀬アナや逸見アナの“アナウンサーとしての本分”を貫かんとした生き様にも似てる。)もしも彼が健全な肉体を持っていたとしても、ここまで著名になれるかどうかは定かじゃないし、元々ちゃらんぽらんな性格であったならば、恐らく今のMaciPadiPhoneなどの製品は生まれなかったどころか、コンピュータそのものが一般大衆に広がる事も、Twitterfacebookといったソーシャルネットサービスそのものも誕生しなかっただろうし、もっと言えば、Windosだって生まれなかったと思う。(Macが使い難いからと言って、ビル=ゲイツは自分が使い易いOSとして作った訳だしw)でも、それを認めるまでに、どれだけの人がバカにしたか…だからこそ、単純な考えで相手を侮辱してはいけないし、自分達の“正義”を振りかざすだけのバカであってはいけない。それを学びながら、天才的な頭脳をフルに活かしたのがジョブズの“天才”ゆえの話であり、だからこそ、多くの著名人が哀悼の意を表するのである。そこんトコが解っていない人程“だから金持ちは…”と僻む。
何度も言うが、どん底を経験し、そこから這い上がろうとして戦った人々は、それ故の幸福を掴んでいる。しかし、何もせずにのうのうと、しかも他人をバカにする事だけで自分の卑しい心を慰めようとしてるバカは、結局のところ、自分の幸福をも逃がしている“大馬鹿者”でしかない。つまり、“心が貧しい”から、相手を勝手に僻んで憎み、自分と同レベルで話してくれるのを待っている始末だって事。つまり、“蔵の財”はイコール資産や豊満な食糧を指すが、それ故に“限りある宝”であり、維持しようと思えば、必然的にケチになる。“身の財”とは健康な肉体、および才能等を指すが、それをどう活かすかは、当事者次第であって、手先の器用さも、使い方ひとつで“善”にも“悪”にも変わる。そして“心の財”とは、誰にも敵わぬ“オリジナル”であり、自分自身そのもの…というより、自分が今一番“満たされた”と感じる感受性を意味する。つまり、他人の不幸にも涙を流すのは、ある意味での“自己満足”…即ち、感化した勘違いであるw それを見た他者が、どう思うかはそれぞれの勝手であり、ゆえに“ウエメセ”発言するバカもいれば、そういうのを叩いて憂さを晴らそうとするバカもいるって事。どちらも結局は、自分が一番“幸せになりたい”と思っているからこその“不幸”であり、そこに気付き、自分を諌める事ができる人間は、故に様々な憶測に惑わされない。
だからこそ、格差に抗議をするよりも先に、自分にしかできない事を坦々と地道にやっていく方が賢明であり、そういう事ができた人程、最後は恵まれた人生を送れると思う。さて、原発や貧富の格差を訴える人達は、一体、いつになったら自分の“我侭”が、世間の足を引っ張っている事に気付くのやら…