迷馬の隠れ家 はてな本館

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“独裁者”を生み出す“要因”とは…

橋下大阪市長を“日本のヒトラー”と称して叩いている輩が多いが、それを求めたのは、いうまでもなく、今までの政党政治や官僚絶対主義的な行政のあり方に閉塞感を感じた、多くの大阪市民の意見であり、それが“改革”を謳いながらも自分らの掌でどうにでもなる平松前市長を続投させようと画策した市職員…特に大阪市交通局の労組がやった“悪事”を晒す結果になった訳である。そして、ここが一番重要だが、それを望んだのは大阪市民であり、大阪府民である事…つまり“大阪都構想”云々よりも、民主や自民の“デキレース”はもういらないという“意思表示”の手段として、大阪維新の会という“組織”を選んだまでに過ぎないという事に気付かないといけない。

では、どうして“独裁者”はいつの世にも登場するのか?その答えは簡単な話で、庶民という“絶対的権力者”自身が強きリーダー…つまり自分達を纏めて面倒見てくれる存在を欲するがためである。別の言い方をすれば、要するに面倒くさい仕事を一手に引き受けてくれる存在を求めた結果、集団で“他力本願”な状況に陥る訳である。ここが一番の問題。そしてそれは、完成された組織社会の“閉塞感”をどうにかしたいと思う、満たされない“欲求”の成れの果てでもある。つまり、誰しもの心のどこかに潜んでいる“破壊欲求”が一時的にリンクした時に、それを“体現”させる事ができる人物を求め、そしてその文言を言い放った者について行く…という図式が、そこに完成するのである。
ドイツの“悲劇”はいつも、第一次世界大戦での“賠償問題”が全てと言っても過言ではない。とにかく、当時のドイツは今の日本以上に隣国からの“謝罪と賠償を(ry”が凄まじかった訳であり、欧州の国家でありながら、アジア諸国以上の“植民地”状態だった訳である。コレを打開して欲しいとドイツ国民は純粋に思った訳であり、また、他国からの“不当な訴え”を証明したくても、表立って言えなかった訳である。そこにアドルフ=ヒトラーが現れ、そして多くの国民は、彼の言葉を信じ“ドイツ再生”を願ったのである。しかし、ヒトラーの“心の闇”は、芸術家として志した時に散々バカにしたユダヤ人教師の姿が常にあり、それ故にユダヤ人そのものを憎んでいた。その“闇”を知らずに、多くの国民が“賛同”した為に、ドイツとその周辺国…というより、ナチス軍によって支配されていった国々で、それこそ“国家プロジェクト”としてのユダヤ人差別が横行した訳である。つまり、韓国人や中国人が、自国内の日本人を“侮蔑”しようとする原理と一緒で、ちょっとした事なんだが、指導者が抱え持つ“心の闇”が、自分達の不平・不満と合致した時に、その矛先がどこに向くかで決まる訳であり、大阪の場合、その矛先が“特権階級”扱いになっている、一部の同和・在日系の“組織”になっているだけの話である。
怨んだり、妬んだり、憎むのは勝手だが、ここで間違えてはいけないのは、だからと言って“排除”するという思考に至ってしまう程の“怒り”を、他人に託してはいけない…という事である。ここでいう“他人”とは、将来にわたって組織を、あるいは社会そのものを支えて行く事になる子供達であり、それに対して自分達の“不満”を、しかも教育の現場でブチ撒ける行為をやってはいけないのである。つまり、社会抗議運動としてのデモにおいて、子供を参加させること自体、実は一番卑怯であると同時に、子供達の“思想の自由”を阻害し、人生を狂わせる“大罪”でもある。それに対して責任を感じる人は、絶対に子供を盾にして訴えたりはしない。そして“被害者”ヅラで横暴な態度を取らない…つまり、全ての“責任”を自分自身の背中に背負い込む“覚悟”の上で、声高に叫ぶ一方で、子供達に自分の“みっともない姿”を見せない様に守ろうとするのである。しかし、今の情報社会において、それはとても難しい事であり、あまりにも膨大な“情報”の中から、ついつい自分にとって“都合のいい”文言だけをピックアップして、それで騒ぐのである。
5年程前に、大和郡山市で起きた警察の容疑者“射殺”事件も、訴えている遺族が在日外国人である事に気付いていらっしゃるなら、何故にここまで拗れるのかが、おわかりいただけるかと思う。ま、“銃社会”であるアメリカの警察官なら、犯人が白人の時は殺しはしないが、黒人なら迷わず銃を抜く…という深層心理的な“差別”を耳にする事が多いが、それと同じ事が日本でもあった…という“事実”を作りたいだけの話として考えれば、その訴えは“正当”なモノとして取り扱ってもらえただけでもヨシとしないといけない。但し、“射殺”された根本の原因は、強盗を行った事に対して警官から逃れる為に交通違反を繰り返したのであり、仮に相手が日本人であったとしても、警察自身が警告発砲したにも拘らずそれを無視するどころか、警官を“殺害”しようとクルマを急発進させた等の“危険行為”があった事に対する“正当防衛”が、今回は認められただけの話である。そこんトコを勘違いしてはいけないし、仮に、相手が“在日”である事を知った上で“殺害”したならば、そこの部分は別件の話になる。つまり、容疑者でもない普通の外国人…しかも日本在住の人に対して警官が発砲したなら散々抗議しても問題はないが、そもそもの“原因”を容疑者自身がやらかしている以上、そこに“差別”があってはいけない。ダーティハリーの話ではないが、もしも警官がトリガーパッピーなヤツであるなら、助手席の容疑者だけでなく、運転席の容疑者の頭を撃ち抜いてこそ“平等”と言えよう。しかし、運転席を狙っていても、助手席の容疑者が“相棒”を庇ったなら、それはまた別の話になる。つまり、そこには当事者以外知りうる事のできない“真実”があって、それをどんな風に説明したとしても、遺族は聞き入れる事等できない…否、それを“真実”として認める事はできないからである。
ま、話が逸れまくったが、冷静さを失って、目の前の問題を片付けずに新しい事をやろうとすれば、必然的に閉塞感を覚えて“当たり前”であって、震災の瓦礫処理に関しても、日本国憲法の改正に関しても、そもそも“何”が原因なのかを考えずに、あるいは知らずに論議してること自体がナンセンスであり、最優先されるべき部分を、特例を用いる等して法律を無視して、とっととやっていれば片付いている訳である。第一、そんなに放射能汚染が嫌なら、長野県栄村(東北の翌日に起きた震災)や奈良県南部および和歌山県南部(台風による水害)の復興を優先にする方が得策であり、東北3県を“見捨てる”覚悟を持つ事で、先に進む事ができる。そこんトコを既成政党が“政争の具”にしたり、政府が消費税増税の“言い訳”にしてる様では、日本にヒトラー以上の独裁者が現れても、誰も文句言えない。