迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“怨み”の果てにあるモノ…

どんな思想も、特に共産主義社会主義、愛国精神といった“憂いの心”の行き着く先は、全て“破壊”の二文字に納まる。では何故、そんな事がまかり通るのか?その答えは意外なトコにある…そう、言った本人と“実行犯”自身が“別人”であるからである。つまり、理想を掲げ、それの為に命を賭している事には変わりないのだが、全く別の次元に書き換えられているからこそ、実は狂う訳である。そう、恨みや妬み、僻みは、個人レベルで有する分にはそうでもないが、コレが子孫末代まで、しかもそもそもの“理由”がわからないままで受け継がれると、それが却って自分を傷付けている“原因”だという事にすら気付かなくなる訳である。そう、言った本人は子孫末代に自分自身の“恨み事”を晴らして欲しいとは願ってはいない…否、最初からそれらは、自分の手でけじめを付けなければならなかっただけの話であり、それが完遂する前に“目標”が消えたり、自分自身に限界が来て諦めざる得なかった事でしかないのである。逆を言えば、自分の個人的な恨みのせいで、他人が不幸になる事を望んでいないのにそうなるのは、遺されたる者達が勘違いしてるからこそ、不幸が連鎖するのである。

そこまでして“怨み”を残すのは、どうしてか?それが、自分自身の“肉体”が消えても、この世に留まり続ける“きっかけ”でしかないからだ。もっと言えば、実体の無い“痛み”は、どんなに受けても傷付く事はない。ゆえに相手の“痛み”すらわからないから、何度でも、しかも相手が悲鳴をあげなくなっても、トコトンやり続ける…というスパイラルに陥る訳である。それが末代まで続けば…もうお解りだろう。
宗教間での諍いも、結局のトコは互いの文化や気候の違いが理解できない事が原因であり、また、一部の聖職者が本業以上にいろんな事に首を突っ込み、荒らした事を配下の信徒に隠す為、ワザと“敵”を作って攻撃させているだけに過ぎない。コレとよく似た傾向は、アメリカの中東外交や、北朝鮮の挑発的態度、更には中国や韓国の“反日感情”等の“根元”を考えれば、すぐに理解できるだろう。過去においても、英仏の百年戦争ナチスユダヤ人虐殺、日本において言えば、アイヌ琉球人差別等もその“根元”は意外と単純。もっと言えば、今の日本人の根元も、教科書通りの歴史であるなら、通称“謎の四世紀”という100年の間に、それこそ“民族大移動”級の騒動などなかったハズである。(そもそも、天皇という存在と邪馬台国の女王卑弥呼がリンクしない時点で、そこの部分の歴史を怪しむのがスジであり、まして、古代の皇族は、何度もその血筋が途絶えている史実がある…ちなみに、現在の皇族も、その血筋は江戸時代中期位までなら遡れるが、それ以前は、かなりエエ加減w)
ここに、歴史を学ぶ上での“危機感”が生じるのは当然の話であり、とてもミステリアスな話であると同時に、新たな“差別の理由付け”を見出すきっかけにもなりかねない話でもある。つまり、もしも今の“史実”が、本当にそれを記録した者の“記憶”や“証言”である事が、明確に、しかも確実に証明できるモノであるなら、それを“言い訳”にして正義論を唱えるバカも出てくるし、それ故に経験のない“怨み”に振り回される若者が出てきても、ある意味仕方のない話である。しかし、そこにこれらの“人生を狂わす恨み事”の宿命から脱却する術を見出す事もできる。つまり、たとえそれが血縁の者の“恨み事”であっても、当事者でない人間が関わる必要のない話であると悟る事が、重要となる訳である。逆を言えば、歴史上の恨み事を話す時に、それでも相手を憎む事でしか自分自身に価値を見出せなかったという“経験談”を話す程度で留めておく事が重要となる。まして“何故自分が差別を受けるのか?”という漠然とした理由を考える時に、そのヒントを踏まえた上で、自分がどう行動するかで、その印象や所属する組織の価値観は、ガラっと変わってくる。
そう、重要なのは自分が自分の子孫末代に“誇れる者”であり続けられるかは、自分自身の立ち振る舞いそのものに掛かっているのであり、世の中に対する不満を他人にぶつけて憂さ晴らししてる様では、やがて自分以上に子孫が、否、未来が傷付く事になる。もっと言えば、結局は自分の殻に閉じ篭っていて、それが息苦しくなったから、とりあえず“破壊”しようとなるだけの話。
とどのつまり、右翼であり左翼であれ、国を…否、世の中を憂うのは結構だが、それに囚われて周りが見えなくなている事に気付かない様では、どんなに崇高な理念をもっていても、結局は自分の世界観のみしか認められない、狭っ苦しい心になるだけ。そしてそれを、誰一人として認めてくれないと僻めば、それ故に精神が歪み、最終的には“救済案”としての“破壊活動”へシフトする事になる…そう、誰にでも“第二のオウム”になりかねないのであり、それを諌めるには、価値観の違いや立場の違いを認め合い、そして互いが支え合う事で世界は成り立っている事に気付く事…その為に“自分にできる事”を見つめ直してこそ、その格差や差別を乗り越える事ができる。誰にも認められなくても、本当に大切な事をわかっている人は、絶対に人の道を踏み外す事などしない…過去にどんな大罪を起こしたとしても。