迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

アホらしい話をする人程、本当の危機感が無いw

えーっと、まずは昨日の情報番組内で、とんでも発言をやったバカがいたんで、それに対して、関電がこんな解答を出した。そもそも、火力発電所がトラブったら、その復旧までにどんだけの時間が掛かり、それまでに他の発電所が連鎖的に壊れる可能性を考えた事が無いのだろうか?また、他の発電所でも万が一の事を考えて、発電の“余剰”が出る様に設定されているが、それらはすべて、原発が稼動してる事と、大型バッテリー(蓄電施設)が活用できてこその話であって、それが無い状況下で、もしも本当にトラブったら、その“テロ”を招いたのは、むしろそういう事を言って火力や水力発電所の定期点検をやる期間を無視して、無理矢理稼動させた反原発派の責任になる。

電気事業者の肩を持つつもりは無いが、実んトコをいえば、この先起きるであろう“計画停電”も、それは発電所の保守点検や部品交換等の“時間稼ぎ”の為だと考えれば、それを無視して…と駄々捏ねる方が、どれだけ迷惑をかけるか、考えていない様である。もっと言えば、オイラは原発を嫌うなら電気を使う権利など無いと思っている。第一、太陽光パネルにしても、小型風力発電機にしても、それらを作り出す為に、それらの発電能力以上の動力が無ければ、作り出す事も出来ないという“真実”を知らなさ過ぎる。逆を言えば、原発…と言うより放射能を“必要悪”だと気付いてる人は、むしろ本当に自然との共存を望む為に、様々な“自然現象”を活用して、極力電気に“頼らない”生活を実践してるモンである。もっと言えば、そもそも、本当に自然主義派と称する人なら、パソコンや携帯電話なんて持っていないだろうし、もっともインターネットに頼る様な生活なんぞやるハズが無いw
つまり、逆転発想で物事を捉えれば、昔の人は現在の様な“便利グッズ”が無くても生活が出来た訳であり、もっと言えば資源を大事にするモンだから、部屋も必然的に“ゴミ屋敷”状態だった可能性がある。というより、むしろ必要以上の機材を置かず、それらを地域の人々と“共有”するという感覚で貸し借りをやっていたハズである。昭和40年代後半までなら、それはごく普通の光景であり、それ故に近所付き合いを通して安否確認を行えていた…ともいえる。そう、本当は不便で貧困な生活をやっているからこそ、モノがある事の重要性と有難味を知る事ができ、故に必然的に機材の取扱いも慎重に、且つ丁寧になるというモノ。今みたいに、使い捨てやリサイクルとは違って、昔の人は、半永久的に使い続ける為の工夫と、大破しても最後まで使おうと修繕する技術があった。それが高じて新しい技術の開発と、修繕を通じて様々な“巧みの技”が伝承されていった訳である。
そういう事を忘れ、また手間暇を惜しまない職人を見下した結果、愛蔵品でも壊れたら“ポイッ”という感覚でしか物事を考えないバカが増えた。何度も言うが、原発廃炉にするにしても、原発そのものの開発をやめれば、建設はおろか、廃炉作業もできなくなるというモノ。むしろ、そういう事を論じたトコで、“反核”を唱える人の“ゴチャマゼ感覚”を論破する程のヒマは、こっちも持ってはいない。しかし、必要以上に電力会社に我侭を言うのならば、潔くブレーカーを落して契約を解消すれば良いだけの話。むしろ自前で発電機を設け、それで生活してれば、誰に対しても文句を言われる筋合いは無い。逆に、そういう事を自分からせずに、むしろ“頼っている”事の方が滑稽である。いくら“顧客”だからと言って、事業者に対して文句を言ってる様では、結局は共倒れになるだけ。自分達に余裕があるなら、自前で発電所でも作れってこったw “商売”で電気を作ってるのであれば、むしろ関電だってそういう“傲慢”をやっても構いやしない。だって、脱原発や反原発を唱えているだけの連中なんぞ、鉄道会社でいえば“ファン”という名の迷惑な存在でしかない。そういうヤツを相手にする必要など無いし、むしろ本当にお金を落してくれるヤツの方が、たとえ相手の素性がヤクザやカルト教団の連中であっても、粗利を上げる分マシである。それが商業…否、客商売における“鉄則”だ。本当の意味で重要なのは、如何に自分が“我侭”であり、他人に“迷惑”を掛けているかをわかった上で、相手に対して改善すべき部分を指摘するのがスジというモノ。自分の権利ばかり主張する事は、却って自分自身の“生存権”そのものを放棄する様なモンと同じ。そんなに安いモンなんでしょうかねぇ…己の命って。

教訓:所詮、肩書きを得たる者が傲慢であると、本人はもとより、同じ肩書きの者までも信用を失う。自らを律し、どこまでも相手を想い行動を起こせる者は、肩書きが無くても、尊極の知恵を持って、相手を諭す事もできる。