迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

My favorite Contents vol.11(“From Me to You”と朝焼けの空〜byebye DEDE〜)



久々に、このシリーズをやる訳だが…ま、タイトルを見て“ピンッ”と来た方なら、もう御存知かと思う。昨日のネタでノブさん達が触れた通り、長年、MBSラジオの“朝の顔”として活躍していた、川村龍一氏が25日、突然亡くなられた。詳細は明らかになってはいないものの、状況からして事件性は低い。しかし、努兄や美絵姐と一時期、一緒に仕事をされていた事を考えると、こないだの小池清アナの訃報よりも、ショックはデカいと思う。

“おはよう川村龍一です”という番組は、そもそも、ABCの“おはパソ”の“対抗馬”という位置付けがなされていた番組で、時間帯の都合で、6時半スタートの番組だった。(当時は放送前に、TBSの早朝番組をネットしてた)そのテーマソングが、ザ・ビートルズの“From Me to You”という曲。この曲はそもそも、コンサートツアーかレコーディングの合間に、おふざけ半分で作ったモノだが、尺が2分程度のモノだった事と、勢いのよさが朝に向いているという事もあって、番組開始当初から最後まで、この曲が使われた。そしてそれは、川村さん自身の“テーマサウンド”として、担当する他の番組でも、多くのリスナーから支持された。
さて、彼自身、元々はタレントではなく、普通のサラリーマン…というより、とある出版社の編集者だった。で、ちょくちょくMBSに出向いては、“ヤンタン”のスタジオに入って、これから売れるであろうフォークやロックバンドの発掘と、海外からの音楽のトレンドを提供していた。ところが、コレが運のツキで、大ナベさんのメガネに適い、また、見た目が当時、努兄に近い事と、話し方がDJ向きだった事がウケて、“ヤングおーおー”での起用が取り沙汰された。しかし、一介の出版編集者が、会社の許可ナシで“タレント稼業”を許すハズが無かった。そこで、なるだけ上司にバレない様にする為、敢えて“天の声”で徹すると同時に、“川村尚(ひさし)”というマイクネームを使う事にした。しかし、努兄がTBS出向に伴う“番組降板”と、番組そのものの“テコいれ”を実行する事になり、コレがきっかけでテレビにその姿を晒す事になる。そしてこれが原因で、務めていた会社を辞めざる得なくなる。ま、すべては努兄の事情に絡んでしまった為に、その人生が狂わされた訳で…w
この一件でタレントへ“転向”したあたりは、後にCRKが発掘した谷五郎氏とよく似ているが、大きな違いがあるなら、谷さんの場合は農協職員の傍らで、プロのコミックバンドとしてタレント活動をやっていた事であり、川村さんとは路線がまったく違う。また、どっちかと言えば、谷さんの場合は元々コミカルな路線で盛り上げるタイプだが、川村さんはむしろ、逸見アナに近い…生真面目でありながら、さりげなくお茶目な一面を見せる部分があった。故に、番組の内容によってはもっと砕けてもいい場面でも、それができない“不器用さ”が、放送中にはよくあった。そしてその“不器用さ”が、17年前の“惨状”を冷静に、しかも坦々と電話レポートという格好で番組内に情報を届ける事ができたともいえる。
“ヤングおーおー”が放送終了する前後らへんにタレントとして独立し、そしてマイクネームを捨てて“本名”で仕事をする様になったのは、オイラの記憶が正しければ、ABCの“エキスタ女学院”なる女性向けの情報番組のMCに抜擢されてから。それ以降は、主にラジオを中心に活躍する様になる。それは、出版会社で音楽雑誌の編集をやっていた経験が活かせると思ったからであり、故に彼自身の希望としては、音楽番組中心で活動したかったようである。しかし、時代が悪かった…現在みたいにFM802の様なFM局が複数作れる様な時代でなく、しかも当時のFM大阪には、どちらかといえばCRK関係者によって占拠されていた状況である。希望していた番組等持てる訳もなく、それ故にMBSが用意した枠に納まらざる得なかった…否、人生を棒に振ってしまう様な事をやってしまった“責任”を感じて、そうなった。だけど、朝の番組といえど好きにしてもいいという条件を勝ち取り、朝の番組でありながら、なるだけ堅苦しい雰囲気にならない様、細心の注意を払って選曲し、そして話題を盛り込んだ。そして、このスタイルがウケて、最盛期には土曜日まで番組枠が広がった。
還暦を過ぎ、大阪芸術大学で後継を育成しようと心血を注いでいる最中で、その心労はかなりのモノであっただろう。何せ、既存の地上波放送局が総崩れ状態になりつつあり、素人でも手軽に使えるネット動画・ラジオの脅威は、今なお隆盛を極めんとしている。その“歴史”の中で、ひっそりと、そして突然に消えた。これからの“ラジオ”のあり方を一番危惧し、そして抗った事は、決して忘れない…