迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

別府航路と“さんふらわあ”の話w

まず、本題の前に、コレを見てもらおう。↓
【さんふらわあ】めいふらわあで行こう #01【迷列車派生】




ここではあくまで、現在のフェリーさんふらわあに関する“過去の黒歴史w”的な事をやってくれてるんだが、オイラの方では、昔でいうトコの関西汽船の航路だった阪神ー別府航路にまつわる話。え、何でこの話かって?いやなに…関西地方と九州限定で放映されたCMの懸賞で、大分・別府航路の“弾丸ツアー”の往復無料乗船券が当たっちまった訳でw(もちろん、ペアチケですが、何か?)

動画上の解説では、当時の“さんふらわあ”の設備が、時代にそぐわなかったとなっているが、実は別府や門司、更には松山や小豆島方面へ行く、いわゆる“瀬戸内航路”ってヤツに関しては、ちょっと事情が違う。というのも、今でこそ“夜航便”オンリーな状況だが、その昔…瀬戸大橋が開通するくらいまでは、昼間に就航する便も、結構ガンガンに運行してました。(明石海峡大橋大鳴門橋が一つに繋がるまでは、大阪南港から徳島・小松島港に向かう便が、フェリー会社全部合わせて8往復、天保山から小豆島・高松方面の高速艇が14往復位あった。)つまり、現在の大阪南港の“寂れっぷり”は、本四連絡橋が全部開通した事による“弊害”とも言える話であり、それだけ分、高速道路や航空路線、高速鉄道網(新幹線)が整備された事を意味します。つまり、フェリー旅の“欠点”である海上の天候に左右され易い事や、(いろんな意味で)時間が掛かり過ぎる事、また機動力の無さ等を嫌った利用客が、そういう煩わしさから解放された訳であり、それ故にフェリー会社が次々と倒産していった経緯を考えると、仕方が無かった事でもあります。
その中でも、最もややこしかったのが、大阪・神戸ー大分・別府航路。現在でこそ、夜行の直行便のみになってますが、昔は途中で、松山や小豆島等に立ち寄って、四国の名産品や乗客等を積んだり、また、四国向けの貨物や乗客を下ろしていました。そして、今から36年前まで…という事は、1976年までは昼間の航行もあった訳で、基本的に、九州・四国と関西以東の運送ルートとして、重要な区間であった事は、いうまでもない。しかし、何で夜航便以外が休廃止されたのか?さっきも上げたが、それは中国自動車道の開通と、山陽新幹線がカギを握っている。つまり鉄道の場合だと、昼間に12時間掛けてフェリーで行くよりも、新幹線で、乗り継ぎ口になるエリア(四国なら岡山・広島、九州ならそのまま博多)まで乗っていけば、最大でおよそ1/6の時間(2時間弱)で移動が可能になる。そして、現在の瀬戸大橋経由で行けば、高松から先はともかく、大阪からだと2時間ちょっとで香川県に着く計算になる。また、クルマでも、昼間の走行なら、オイラの経験上、大阪市内から高知までおよそ3時間程度で到着する…こうなると、フェリーを使う理由がなくなる訳である。よって、瀬戸内航路のほどんどが夜航便になったのは、ある意味時代の流れであって、特に四国便に関しては、南海フェリーが数便あるかどうかといったトコまで激減したのはいうまでもない。(当然だが、明石の“たこフェリー”が事実上廃業したのも、結局は大口の貨物輸送が、全て明石海峡大橋経由のトラック輸送にシフトした為であり、法律上高速道路を走れないミニバイク組涙目なのは、ここでも言っておく。)
ただ、今から100年前の話だと話は別になる。つまり、当時としては、むしろ“瀬戸内クルーズ”の意味合いもあって、昼航便でも人気があって、“さんふらわあ”の生みの親、照国グループの中川喜次郎氏の“狙い”としては、あながち“ハズレ”とは言えないのである。逆を言えば、時代がたまたま“悪かった”だけの話で、“さんふらわあ”そのものの基本コンセプトは、昼航便が未だに“現役”であれば、大筋の部分で“正解”となる。つまり、日本人の船に対する認識が、“観光遊覧的要素”を見越した感覚であったなら、瀬戸内を走る“さんふらわあ”の勇姿を、昼間の山陽道から並走する格好で拝めた事も意味する。日本のフェリーは基本的に、僻地の島と本土を結ぶ“連絡船”であって、美しい島波の景観を楽しむ…とか、港町特有の夜景を観覧する…といった観光遊覧目的の要素を削ってるトコがある。ま、島国で海洋民族にとって、船はあくまでも貨物運搬と、対岸への渡航が目的であって、その需要が無い限り、収益に結びつかないのはアレなんだが…