迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

金子哲雄が遺した事、消し去りたいもの…

本来なら、とっとと“イベジョ”とかの更新をせねばと思うのだが、ここんトコ、マインクラフトのアプリ版にハマって、情報収集ままならずw ま、その前に、近所のバイト先を見つけろと小一時間…
休話閑題。今回はちょっと気になった話をひとつ…それは、先日(10月2日)若くしてこの世を去った経済ジャーナリストの葬儀の件について。通夜の席に汚沢が姿を現したんだが、その理由を考えると、これは故人に対して一番失礼な態度を取ったとしか言い様がない気がしたからだ。と言うのは、当の本人が隠しておきたかった事…他者に対して悟って欲しくなかった事を、“師匠”という肩書きを振りかざしてバラす行為だからである。これは、たとえ師弟関係があったからと言っても、それを最後まで隠してやる事も“師匠”としての配慮であるべきであり、本当に当事者が“弟子”として誇りを持っているなら、最初からその“素性”を明かした上で行動を起こしているハズである。そう、汚沢は結局、自らの“弟子”に縋った事によって、故人となった“弟子”の名誉を穢したのである。

オイラが学会員である事を、このBlog上で明かしている理由は、宗教に関する批判を真正面から受け付ける意思表示である事と、本当に学会批判をしてる人が、どこまで相手の事を“知っているか”を試す為である。つまり、何も知らずに、しかもマスコミに流れている上辺だけの情報に惑わされ、勢いだけで批判する人達を不憫に思うからこその“喧嘩腰”であって、キチンとこっちの話を聞く耳を持っているのであれば、ここまで攻撃的になる必要性もない。そして、重要なのは、宗教や民族、学歴のみで批判する事は、人間の“個性”というモノを“完全否定”してるのと同じである…という信念がオイラにはある。それに基づいて話している以上、そこからブレた話をするのは、オイラ的には単なる“冷やかし”でしかないと考える。つまり、相手を批判するのであれば、それに似合うだけの専門知識と、それを相手のスキルに合わせた解説ができる柔軟性が必要だというスタンスである。逆を言えば、ただ単純に創価学会をバカにするのであれば、それに似合うだけの宗教哲学と信念、そして信仰心を見せてこそ批判する意味がある。
させ、話が思いっきり明後日の方向に行ったので元に戻すが、汚沢は安易に“師弟関係”を強調し過ぎて、その“責任”の重さを知らなさ過ぎる事が露呈したと言えるだろう。なぜなら、本当に“忙しい人"であるなら、こんな一人の若造の下へ、小間使いの秘書に自らの名代として伝言を託し、やらねばならない“仕事”に専念するのがスジであり、また、師匠として崇めているからこそ、その“仕事”を邪魔しない様に配慮し、敢えて“隠していた”という部分に気付かなければならない。相手が自分の“弟子”であるからと言って、仕事を放り投げる師匠は、故に弟子も不憫である。なぜなら、そういう部分も“批判対象”となるからである。本当に相手との関係が“師弟不二”であるなら、師匠は師匠としての職務を果たす事が大事であり、弟子を信じてやる事、そして慈しみをもって、その“真心”を察してやる事が本来のあり方であり、弟子も弟子で、師匠と袂を別けたのが“意見の相違”であれば、決してその事を公にしてはならないし、尊敬してるのであれば、最初からそれを常に口にしてるモノである。つまり、この時点で、オイラからすれば、経済に関する事については尊敬できても、人間性に関して問題アリと感じたからこそ、その“関係”を公にしなかったのではないかと推測する事ができると思う。
学会の話に戻すなら、冠婚葬祭にいちいち、幹部…それも全国区の指導者を呼びつけるのは、末端の学会員でも忍びない話として、報告を挙げる事はあっても、出席を強要はしない。まして、それにいちいち答える程、上層部もヒマではない。(当然だが、布教活動以外にも、地域交流だの、御書に記載されている事柄の精査等、色々とやってますんで…w)そこには、組織としての“信頼関係”があってこその話であり、たった一枚の“紙切れ”でも、そこに認められたメッセージをどう受けとるかで、各々の価値観が決まるといっても良い。逆を言えば、組織の規模が小さいならともかく、全国規模の、しかも各地に散らばっている学会員に対して、まったくの平等な扱いをやるのであれば、大規模な会合に参加する者は、地域に残る他の学会員の“思い”も一緒にその身に背負い、参加するのがスジである。また、幹部も幹部で、出逢う人全員に対して手を抜いてはならないし、相手の“覚悟”を受け止めた上で返答するのがスジである。それが創価学会という“組織”が今日まで纏まった状態でいられる、根本的な考えである。
それを一しがない政治屋がマネをしようと思っても、根本的にその“信念”が違う以上、纏まるハズがない。これは現在の民主党でも、そして日本維新の会に集うバカ…もとい、有能な連中でも同じ事。相手を“弟子”として迎え入れたのであれば、あるいは“師匠”として従事するなら、その“信念”が揺らいではいけないし、“共戦”する意志を常に、双方が持たなければならない。コレが欠落し、“師匠”と崇め奉られる事をヨシとする様な態度や、“弟子”である事を理由に自らの責任を、師匠や所属組織に擦り付ける事は、自らを傷付けるだけでなく、組織の評価も、そして信念そのものの価値をも下げる事になる。コレが、オイラが常に心掛けている“襟を正してモノは言え”の根幹である。自分を強く律し、そして相手に対してどこまでも公平な立場で話をする事が、本来の“あるべき理想”である。
こっちの事を“ウエメセ”とか言って嫌うのは、大いに結構。だが、相手を批判した時点で、自分自身も“対等”なのである。逆を言えば、本当に“大人な対応”とは、謙る事でも、蔑む事でもない。権威や学歴、そして貧富の差等、結局は自分の知識や感覚を鈍らせる“一番邪魔なモノ”である。それがわからない人程、汚沢がやった行為に対して、上辺の情報に惑わされる。本当に“弟子の死”を悼むのであれば、あの場に行くべきではない…そう、岩手の被災者の下へ行き、復興の手立てを準備してやる事が、夭逝した流通ジャーナリストへの“餞(はなむけ)”になる。それがわからぬ様では、やがて汚沢は孤立するだろう…やるべき事をやらぬ者が、“組織の顔”であってはならない。

遅ればせながら、ご冥福お祈りします… つ菊