迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

批判するより、行動を…

巷でいろんなネガティブな意見を聞くが、その殆どが、いわゆる“何もしないのに先を不安視する”という臆病な内容ばかり。ま、確かに将来を悲観する気持ちはわからなくないが、そこで止まって“酔いしれている”自分って、なんかみっともなくない?むしろ、それに気付かないのかなぁ…ぶっちゃけた話、資本主義だろうが共産主義だろうが、根本的にどの政策も“理想”は立派だが、その中身はいずれも似たり寄ったりで、いわゆる世間でいうトコの“誰がやっても変わらない”という結論に達しやすい。なぜなら、そこに“参加”してない…もっと言えば、自分がその取り組みや概念に入り込まずに傍観者を決め込んでいるから、実はそう感じるだけであって、実際に自分自身が、その概念や思想等に感銘し、行動を起こしていれば、少なからずとも、その“変化”に敏感になる。つまり、無関心…というか、自分自身の五感をフルに使って物事を見聞しよう、学ぼうという気がない限り、思考の袋小路に迷い込んでいく訳である。それがのちに、あらぬ方向へ行くと、最終的に“絶望”そのものを、自らが望む様になってしまう。

つまり、過去から学んだ事を、ただ表面上だけ取り繕ったところで、貧困層はなくならないし、差別も更に助長されるだけ…というパラドックスの“原因”は、自分の信念の拠り所がない事と、他人を羨むあまりに、自分が持ってる“才能”そのものが把握できていないという二点に尽きる訳である。前者は正しい宗教哲学があればどうにかなる部分でもあるが、問題は後者。いろんな意味で万能な人程、実は“凡人”になりやすいという事を、誰も知らないのがオチとも言える訳で、逆にさまざまな分野で才能がある者は、それ故に“できない”ハンデもあるという事は、あまり知られていない事。そう、利点は別次元から見れば“欠点”でもあり、弱点を活かせば、それ故に鉄壁の“魅力”にもなるという事だ。
今の日本を立て直すには、まず“他人の『美徳』を羨まない”事と、バカにされても“信念を貫く度胸”を持つ事である。貧困であるから、そこを脱しようと金策に走る人が多いが、それは資本主義…否、拝金主義な富裕層がいる限り、改善される事は絶対にない。しかし、それ故に、その立場を“逆転”させる事も可能である。それは、貧困だからと僻む事より、もっと“大切な宝物”は、誰にでもあるという概念に立つ事である。どんなに金銭や物質的に豊かになったとしても、それ故に“失う”モノも多い。当然、高貴な地位を勝ち得ても、それ故の“犠牲”が憑きまとう。それがなんなのかは、まさしく千差万別であって、一概には言えない。何らかの方法で一攫千金を当てようと意気込む人程、途中で挫折する最大の原因もそれであり、また、運良く大金を手に入れたとしても、それ故に不安を抱えるのは、そういう事である。
つまり、どこまでいっても“他人の芝生は青い”のであって、自分の手元を見ずに嘆けば、それよりも不幸な人間までも“幸福そう”に見えてしまうのである。いわゆる“リヤ充爆ぜろ”的な考えも、結局は自分自身の不幸さ加減を“自慢”したいだけの話であって、相手を見ていない確固たる“証拠”になる。いじめ問題も結局はそこであり、虐待もまた然りな部分。もっと言えば、相手の才能や思考が“自分的に許せないからこそ、その全否定をやってる訳である。でもこれって、どんなに同じ様に繰り返し相手を潰したとしても、ひとつたりとも心が満たされる事はない。なぜなら、自分自身の不幸を、何故か自らが願っているからである。ようするに、悪い意味での“願兼於業”をやってるのが全て。
てことは、相手から見て、自分はどう映ってるのかを知る一番の手立ては、実は自分が受けた侮辱全てを“裏返し”て考えてみる事である。オイラの場合は、男勝りな行動力と、一人で何でもやってみようという好奇心、そして、忍耐強さが“いじめ”の原因にあった。忍耐強さはむしろ、いじめられた経験が積み重なってこその部分だが、それ以外の部分は、ある意味他の奴から変態呼ばわりされても仕方ない部分だw しかし、逆を言えば、いじめを受ける時は大概集団暴行に近い形式であり、また、他の奴から見てバカにされるのは、いわゆる“女の子”らしくない事にあった。けど、それは、そういう事が許される環境下で育った事を羨んでる証拠であると同時に、独りになると、むしろ怖じ気づいて何もできない弱虫である事を意味する。今でもそれ故にバカにしたり、変態呼ばわりする人はいる。けど、オイラは気にしない事にしてる。だって、相手はそれ、できませんからねw
つまり、できる人を羨む人程、実は相手の“弱点”を見ていないのであって、それがわかると、単なる凡人以下なヤツもいる事に気付くだろう。しかし、そこんトコをフォローする様に、才能というヤツは研澄まされていて、故に誰にも辿り着けない境地に達してる者もいる訳である。例えば、武豊騎手の中央競馬での3500勝も、地方競馬佐々木竹見騎手の記録と比べれば、数字の上では劣ってるが、中央だけの戦績である事と、達成に至るまでの条件を考えれば、今の現役騎手で達成可能な数字でない事は、長年競馬に携わってる者であるなら、誰でも想像がつく様に、その世界観にいる者でなければ、それがどんな価値なのかは、誰にもわからないって事。ましてカルトな分野になると、それこそトンデモ記録のオンパレードであって、その価値を理解しようモノならば、それ相応の知識と経験、そして過去のデータという裏付けが必要となる。逆を言えば、去年引退した阪神金本知憲選手の連続スタメン出場記録も、野球を知らない者が聞いても、どれだけ凄い事なのかがわからない様に、自分自身の興味から外れた事、あるいは、直接関係のない事案なんてのは、その価値や意味合いなんぞ“理解不能”である。もっと言えば、彼等の年齢以上なのに“現役”で社会で活動する者もいれば、それ以下で偉業を達成する“強者”もいるって事。それを見て羨む人程、すぐに不安や批判を口にする。
悪いけど、他人の為に施しをしようと思っても、単なる自分自身の人気取りなら無理する必要はない。逆に、今まで自分がやって来た事で少しでも役に立てるならという気持ちがあるなら、どんな行動もいずれはそれを引き継いだり、協力を申し出る者が出てくる。もっと言えば、震災復興に必要なのは瓦礫撤去やインフラ整備の重機や、除染の為の費用や技術、機材だけじゃない。後世に伝える意志と、被災者の心を少しでも癒す為の“できること”全てである。むしろ、被災地外のケヤハウスだとか、集団疎開なんぞ、なんの意味もない。あったとしても、それは単なる実行者の“自己満足”であって、被災者の心を、むしろ踏み躙る行為でしかない。また、デフレ脱却を諦める様な発言をする学者なんぞ、結局は自分の予測が当たってる事が快感でしかないだけだ。
敢えて言っておくが、どんな志も、そこに感銘する者だけが集まってこそ達成される理念であって、それこそ本気で“異体同心”の境地に至らないと、一気に“邪教”と化する。また、資本主義なら資本家が、共産主義なら執行部が、当然王制を布いてるトコなら王族が、それこそ本気で末端の最前線にいる者を救済する為に、自らの命を抛ってまでも行動をしなければ、それ故の反乱を起こす事になる。過去の事例を持ち出すまでもなく、衆院選民主党が大敗したのと、投票率が悪かったのは、民衆が今の政治に不満を持ち、信用していないからこその話。経済も、今までの技術や実績に胡座をかき、次世代の後継者育成を怠ったツケが、この不況を生み出しているといっても良い。まして、高学歴ばかりを望み過ぎて、自らの手で発掘する事をやめた上に、人件費を無駄に削ってる事が、結果として貧困を生んでいる訳であり、本当の意味での技術開拓や修錬を行うのに、年齢や学歴を気にしてる様では、衰退するのがオチだ。
まして、自分の想い通りにならないのは、誰でも同じ事だ。それを他人のせいにしてる様な者が、立場を利用して相手を潰す事は言語道断。指導という名の下において、部下や生徒を殴るのは、あくまで重篤なミスをやった時の一発だけに留めておかないと、無関係な人にとばっちりが飛ぶ事になる。わかりやすく言えば、桜宮高校の“問題”は、既に高校受験を控えた中学生に多大な迷惑を掛けてる事に、橋下市長も、そして問題の教師達も気付いていない時点で“OUT”だ。(それだけ分、日教組の“中身”も腐ってるって事も、付け加えておく。)
ま、長々と書いたが、自分にできる最善の行為も、相手によってはその“答え”は違うって事に気付き、取るべき態度を間違えない事で身を守る事はできるだろうが、それ故に失ったモノはもう二度と戻ってこないという“覚悟”だけは、絶対に忘れてはならない。そして、もしもそれを取り戻す事ができたなら、それは自分の努力だけでなく、他者の“犠牲”があった事に気付き、それに対する感謝の気持ちを忘れるな…って事。だから、不安を口にするよりも前に、まずは自分で行動を起こし、確かめること。それができてこそ、初めて相手を罵倒する事ができる。その権利もないのに相手を罵倒するなら、その責任、自分自身で背負いなはれ。