迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

本当の意味でけじめをつけるには…

某アイドルの丸刈り謝罪や、詐欺オークション関連で、何やら芸能界も腐臭が漂ってる感がしますねぇ…ま、元来、芸能界というのはいろんな意味で“部落差別”的な世界でありまして、古典芸能のひとつである歌舞伎や文楽も、演者自身はそもそも、江戸時代における“エッタ・非人”階級であり、遊里の女郎共々、最も底辺の者として扱われていました。とは言え、芸事の為にそういう階級に甘んじながらも、才能を認めてもらった上でスポンサーを募り、時には上流階級の人と交流する事も多かった訳ですから、階級が武士の次に高かった農民よりも、遥かに裕福な生活をしてた連中もいる訳であり、そこんトコは一概にいえない…というのが、歴史…ことに民俗学においては、一般常識としてよく言われていた事です。つまり、本来なら芸能界の人々は、一般の視聴者から蔑まされても文句を言ってはいけない連中であって、周囲から私生活までも監視されている程侮蔑された者…として扱われる事が本筋であって、その為に虚勢を張る芸能人(特に俳優)は、昔は結構いらっしゃいました。そして、それ故に、時として事件に巻き込まれ、その責任を問われた時に、記者会見を開いては弁解をし、時には芸能界を去っていく事もしばしばありました。しかし、今の芸能界は、そういった本当の意味での“潔さ”がなくなった様な気がします。

逆を言えば、芸能界そのものが、一般分野の人達と馴染み過ぎて、ボーダーレスになっているという事です。もちろん、その最大の要因はTwitterFacebook等のSNSが普及した事…つまりインターネットによる疑似コミュニケーションが、無差別な交流機会を増やした事により、本来のあり方、身の弁え方を無視した感覚…というか、勘違いをしてるトコが多い様です。
何度も言いますが、本来、芸能とは、特殊技能がありながらも、それ故に生産性が無く、世間から“役立たず”というレッテルを貼られた者が、なんとか生活をやっていける様に、一部のモノ好きなパトロン(スポンサー)に保護された存在であって、逆に一部のスターダムな存在の芸能人というのは、それ故にスポンサー契約に縛られた存在でもある訳です。つまり、多くの富裕層から支持される芸能人とは、一見フリーダムに見えて、実はある意味での“奴隷”なんです。俗に、様々な企業で働く人達を“社畜”という揶揄をする人がいますが、芸能人は、一見すると裕福でも、実際は様々なしがらみに縛られた、いろんな意味で“社畜”以下の存在なんです。
しかし、それ故に彼等は、それ相応の処世術を身に付けていないと生きていけない存在であり、また、その付合い方も、まさしく“空気嫁”的な技量が必要となってきます。故に、一般世間の人よりも礼節を弁えた接し方を学び、ちょっとした事でも責任感を持って芸事に勤しむ事が肝要となってくる訳です。従って、梨園の者とされる歌舞伎俳優も、基本的には躾が厳しい家庭になりやすく、また、落語家も夜遊びが過ぎる人が多くても、日々の芸事への研究が熱心で、指導も熱が籠ります。当然ですが、舞子・芸子もそうで、元々、貧困農家から“女の子”であるがために、口減らしの為と小額でも収入を得る為に遊郭に売り飛ばされるモノの、相手する武士や富裕層の旦那どもを満足させられる様、最低でも読み書きができるレベルまでの教養を身に付けます。つまり、下賎だからといっても、教養の部分では、場合によっては一般社会人よりも遥かに豊かな知識を持ってる事が多い訳です。
つまり、芸事を極めし者であればある程、粗相を犯した時の“身の引き方”を知っている訳であり、当然ながら、自分が重篤な犯罪を犯したと判れば、たとえ冤罪であったとしても、スポンサーに多大な迷惑を掛けた事を詫びて、スポンサーの目の前で自決する人もいた訳であり、また、自分の名誉よりも遺された者達の更なる発展を願って、矢面に立つ事も多かった訳です。それが、本来のけじめの付け方でした。とは言え、それはあくまで江戸時代の話ですが…
さて、現代の芸能界を見てると…特にアイドル系のタレントには、そういう“プロとしての意識”そのものが欠如してる人が多い様に見受けられます。その最大の原因は、一部の構成作家が、ただ単純に“法令遵守”の名の下に、グレーゾーンでの活動を強要してるトコが全てと言えるでしょう。つまり、限りなく“クロ”に近い行為でも、放送局やレコード会社等にコネがあり、しかも知名度を活かしたやり方で、劇場や活動拠点を手に入れては、そこで風営法労基法ギリギリの待遇で働かせる…しかもそこに集う者達も、ある意味バイト感覚でやってるから、自分達に対する“プロ意識”そのものが欠如していて、しかも、つまらない罰則を課す事でしか維持できない…これでは、二束三文なアイドルしか出てきません。
プロを育てる…というのは、何も“恋愛禁止”だとか“卒業”とかで、縛り上げる様なモノではありません。むしろ、学業優先で活動が限られている様な子でも、それに似合うだけの鍛錬があり、また、年齢的に高齢でも、才能の伸び代がある人にとっては、周囲の“雑音”を払う事によって、更なる芸の極みに達する事も可能なのです。つまり、本物の芸能人とは、グループ活動であれ、個人であれ、高いプロ意識を持続できる人である事と、後輩を育てるにもウエメセではないという事です。はっきり言って、本物を見る事に肥えてる人が求める、高度な注文に対して、自分自身ができる範囲の技量をもって、それこそ全身全霊で答える事が芸能人の“本分”であって、まして、恋愛を許さないのであれば、その責任は当人ではなく、相手側にも求めるべきであって、当事者だけに押し付けをする様なマネジメントは、既にファンや関係者に対する“背任”を疑わざる得ない。まして、謝罪そのものも“軽い”様では、信用も何もあったモンじゃない。
そう、本来はファンという名の“スポンサー”が育てるのが芸能人であって、構成作家やプロデューサーという存在は、あくまで助言程度で留めておくべきであって、自分の思い通りにならなくなった相手を勝手に切り捨てたり、ヘンにしゃしゃり出て手を加えようとしてる様では、ファンも興醒めになる。30年程前の某アイドルグループでもそうだったが、結局、最後はグループそのもののファンが見限り、また、個別活動してた者も、次第にファンが遠ざかっていったのは、結局のところ、芸能人としての躾ができていなかったからだと、オイラは思う訳である。