迷馬の隠れ家 はてな本館

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ヘイト(差別)の背景と対処法

一部のネットユーザーのTwitteでは、安倍総理を叩くのに、潰瘍性大腸炎に関する体調不良を“単なる下痢”と見下す発言が頻発してる様だが、敢えて言っとくけど、難病と政策は同一の場所で考えるモノではなく、むしろ五体満足でも政策実行できない政治家の方がよっぽどだと思うw この病気に関しては、あとでマーティの枠でやってもらうとして、そもそも“ヘイト”をする人の真理には、何が存在するのか?

結論からすれば、自分を見失っていて、尚かつ焦ってるからこそ、些細な事でも噛みつき、自分自身が優位になる様に仕向けようとする訳で、端から見たら途方もない醜態を晒している事に気付かない事が、更なる侮蔑、差別を助長させているって事。先に断っておくが、オイラは言葉遣いも悪けりゃ、世間知らずのニート状態であるw もっと酷く言えば、いわゆる“コミュ障”である。故に、テレビを見ながら、画面上の人物の心情を口にして、義父と口論になるのは日常茶飯事で、しかも相手もKYなんで、結果、互いに口を訊かない事なんてザラである。だが…そういうのを第三者から見ると、どっちが“みっともない”かは、一目瞭然。同じテレビを見ててそういう事だと察しがつく人は、義父のキレ具合がどんだけ“大人気ない”かになるし、そこんトコを省いてオイラの発言がおぞましいと思うなら、オイラの方が“悪い”と言う事になる。つまり、第三者も所詮は意見がバラつくのであって、結局は“喧嘩両成敗”で解決させなければならなくなる。つまり、本気で“ヘイト”を考えると、引っ込みが付かなくなるどころか、双方に悪気がなくても、話が拗れて“殺戮三昧”になるって事だ。
言い方を変えれば“正義”とか“上下関係”に固執した結果、自分自身が我侭を言ってる、あるいは相手の心理を理解せずに怒鳴る事で、自分の“思い通り”になると思い込むあまりに、周囲が見えなくなる訳である。(これはオイラはしょっちゅううな訳でw)問題は、誰がこれを“止める事”ができるか…である。反対に言えば、何ひとつ欠点や弱味がなければ、何も言われないし、恨まれる事もないって事にもなる。しかし、それってどうだろう?
どっちにしても、自己中心的な感覚しかないようでは、結果として対等なる人権の尊重なんぞ無理である。むしろ、本気で対等に話をしようと思うと、どっちかが“折れる”しかない…というのが、世の中の“常識”であり、それがまかり通ってるから、否定にムキになる。しかしそれって、自分自身が相手をバカにした時点で、自らも相手にバカにされる“権利”がある訳であり、その時点で“対等”となる。つまり、“等価交換”の原則は然るところ、子供の喧嘩によくある“バカを言ったモノがバカ”という事である。だから、様々なヘイト(差別)をやった時点で、心理的な部分も含めた“暴力”が自分自身に降り掛かるのは当たり前であり、それを認識した時点で、相手を見下すのではなく“対等なる存在”として扱うべきである。つまり、一部の在日外国人が不正をやってるからと、他の在日外国人を叩いて良いという“道理”がまかり通るなら、それは自分自身が海外に定住する事になり“日本人”であるがためにあらぬ疑いをかけられても、それは文句言えない。まして、従軍慰安婦問題もだが、そもそも“性奴隷”という事で訴えている様だが、そこに金銭授受がある場合、そうとは言い切れない。風俗店の女性が、いわゆる“職業選択の自由”を片手に“売春”をやってる訳だから、本来なら女性の人権を声高に叫ぶのであれば、彼女ら売春婦は“女性の敵”でなければならない。もちろん、様々な事情があって、そういう道以外就職先がなかったというならともかく…まして、昔の遊女・花魁は、遊郭において品位を重んじてた故に、世間の男性以上に学識に富んでいて、且つ優美でなければならなかった。つまり、単なる“性奴隷”ではなく、男性の品位をも高める程の知性がなければ、生きていく事ができなかった。逆を言えば、年頃の娘であっても、品格のない、あるいは素養のない者は、遊郭に送り込まれても、表舞台には出る事すら許されなかった…という。
休話閑題。つまり、侮蔑を言う人程、歴史背景を知らずに、それをも“自分がエラい”と褒め称えないと許せない程“バカ”である…という事だ。どんなモノでも、それ相応の歴史があり、それを繙けば、侮蔑をする事自体が“恥ずかしい行為”だと感じる事になる。もっと言えば、民衆が帝王学を身に付けていれば、ただ単純に不平不満をブチ撒けたとしても、それで世間が変わる事は無いという事に気付くだろうし、対等に扱うという“本意”を知る事もできる。が、悲しいかな、真の意味での帝王学を学びたくても、目の前の仕事に明け暮れている様では、学ぶ機会もない。もっと言えば、知性を磨く修業をするよりも、明日の飯を確保する事が重要だと判れば、そっちに流れるのが生物としての性(さが)である。そして、より大量の物品を確保しようと思えば、自分よりも“弱い”と思う者を襲って、その分を奪った方がラクだ…となれば、必然的に、そういう方向以外での知能が働かなくなる。つまり、必然的にそういった物質的な充足感に囚われる故に、必要以上に貯め込む訳である。表現として適正ではないが、いわゆる過食症は、まさにコレであり、これが“食物”に走るか、“地位・名声”に走るかであり、まさに“餓鬼”である。そして、その上にある“修羅”だからこそ、他者が“気に喰わない”のである。
以前、このBlogで“十界論”を説いたとは思うが、つまるところ、“ヘイト”を平気にやってまう者程、実は自分自身の自尊心に振り回されている哀れなる存在なのである。いわゆる“三悪道(地獄・餓鬼・畜生)”と修羅から脱げ出せぬ命故に、姿は人間であっても、心理的な部分までも“人間”になり切れずに悶える訳である。敢えて言っとくが、所詮、人間は目の前の姿以外、誰も信じない…だから、自分自身の五感以外のデータはあやふやであり、信用できない…と切り捨てるのであれば、第三者が如何様にして、自分自身の経験や見聞録を信用すると思う?この一点を考えれば、引き下がれずに大暴れする相手に対して、自滅する方向へ導かざる得ない。自分がその立場になり、そして経験してわかるのであれば、こんなバカげた事は言わない。ま、どんな悪口を言われたとしても、自分自身がやり通すべき仕事をキチンとやれた者だけが、そういった悪口を言う人を嘲笑う事ができるのであって、言葉狩りをする以上、誰も本音を話せなくなる。それが自覚できた時、自分を恥じる事になるでしょうw