迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

さて、東京都議選が終わった訳だが…

普段ならチルトに解説してもらいたいトコだが、今回はあくまで“地方選”であって国政選挙ではない。が、ここから見え隠れしている、この国の“閉塞感”を正しく知る為には、まず、投票率と結果から分析する事が重要となる。つまり、“数字上のデータ”と“民衆の感情”はリンクしていない事を知った上で、それでも選挙が必要な“理由”を、キチンと言っておかなければならない。そう、こういうのも“次世代”を担う人達の為に、“時代の先人”としてやるべき“仕事”ですから…

今回の選挙では、自公連立与党会派が“完勝”という結果になったが、問題は、その“投票率”…今回の選挙は、東京都の有権者数の内のおよそ43%“しか”、投票所へ足を運ばなかった。これは何を意味するのか?また、野党会派に至っては、共産党以外は惨敗という結果に関して、これも何を意味してるかと言えば、要は今の政治は完全に“創価学会vs共産主義思考”の図式…ぶっちゃけ論で言えば、固有組織票の有無が勝敗を喫してる訳である。もっと言えば、殆どの世論は、この“組織の連帯感”を嫌うあまりに、組織に“属さない”…というより、どの思想にも“染まらない”存在を求めるあまりに、いつの間にか選択肢が“棄権”のみになってしまってる訳である。念のために言っておくが、小学生が使う、どの社会科の教科書にも、選挙の意義ややり方は記載されているし、公立の学校であっても、生徒会、あるいは学級会の選挙はあるから、そこで組織運営のあり方や統率を学ぶモンなのだが…最近の学校では、そんな最小単位の“政治”を無視するんでしょうかね?
言論の自由といえど、そこには“責任”が生じる。こないだのブラインドセーリングで遭難した誰かさんを叩くバカが多いけど、まだ、海自に迷惑かけながらも救助されて命あるだけマシな方であり、それこそ、著名な冒険家である植村直己を批判するつもりはないが、彼みたいに山で遭難した挙げ句、未だその亡骸が回収されないまま放置されている登山家や冒険家がどれだけいるのやら…オウムの信者を未だに叩くバカも同類で、サリン等の毒物を使って一般市民を殺害した事は許されない行為でも、そこに至るまでやってのけた事柄は、相当な度胸が必要である。じゃ、自分らはそこまでの“行動力”があるのか?真面目な話だけど、目立つ行動をやる人は、無意識の内に自分の“やるべき行動”をやってるまでに過ぎない。そこには単純に、情報に惑わされたり、誘惑に乗ったりしてる訳じゃない。自分が自分で“責任を果たす”事を踏まえた上でやってる訳であり、そこで他者に多大な迷惑を掛ける事すら厭わない訳だ。しかし、そういう人の後ろをついて来た人達は、勝手に自分の責任である部分までも、そういう人に擦り付けた上で、成功事例“だけ”を求めてバカにする訳である。でもね、成功者は、必ずしもその人生が順風満帆なままではない。むしろ、失敗の連続で、しかも多大な迷惑を掛ける“極悪人”である。そこんトコを踏まえた上でもう一度、歴史上の偉人を見ていけば、一般人から見て“異端児”だった者だけが、その歴史に名を残している。名馬と称される競走馬や乗用馬も、その殆どがクセ馬で、普通の人間が飼い馴らせる様な“優等生”は稀。むしろ、その気性の荒さや弱点があるからこそ、本番では、持てる能力をフルに使えるのである。
話が逸れたが、選挙でもそうであり、本気で今の政治に不満があるなら、それこそ他の国々同様にデモから暴徒化した挙げ句、政府との内戦をやれば良いだけの話。だけど、それで多くのモノを失う覚悟はあるか?日本は、その教育のあり方故に、55年体勢以降、学生中心のデモや内戦が起きていない。学生運動で暴れた世代の中には、それによって“社会不適格者”として企業や世間からそっぽを向かれ、それ故にテロ組織と化した者がいる。“『いちご白書』をもう一度”とか“神田川”等の70年代から80年初頭のフォーク・ニューミュージック系楽曲には、その歌詞を丁寧に読み直すと、学生運動に勢を出す者と、就活で内定が取れない事を恐れた者の葛藤が、いたるところに書き込まれている。それは、楽曲を作った者達自身が、該当する学生であったからこその話であり、その“思い出”を忘れない様にする為に綴られたモノだからこそ、これらの楽曲に感銘を受ける世代は、その意味を踏まえた上で熱唱する訳である。それをどう思うかは勝手だが、自分がそれだけの“思い”を、何かにぶつける事ができるだろうか?
だからこそ、考えなければならない。白黒をはっきりさせたいのであれば、それこそ自分自身が“恥を掻く”事を恐れない事…誰かの為ではなく、自分自身の為にできる事として、その使命を全うする覚悟と、世間から罵倒されても、胸を張って鼓舞する事ができる度胸こそ、これからの時代に必要なスキルであって、語学力や計算力は、その一端でしかない。だから、本気で社会に不満があるなら、殻に籠るのではなく、知性と理性をもって、世間の常識に“打ち勝つ”為の戦いをするべきである。常識に縋るのではない、常識を“超えて“やることで、新しい“常識”が生まれるのであり、それが次世代に対する“手本”となる。オイラから言わせれば、選挙に参加しなかった、およそ6割の有権者は、自らの手で次世代を育成する事を拒絶した、無責任な“親”だと…