迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

哲学無き教義は“宗教”とは呼べない…

とあるBlogを読んで、オイラ的に“ああ、日本人の宗教感ってこんなモンか…”と考えてしまった。どうも、オウム関連以降の宗教感が、未だに拭えないというか、まだまだ宗教の本意を履違えている人が多いというか…元来、宗教は精神の拠り所にして、自身の人生を決定付ける根幹の倫理を学ぶ場であり、先人達の人生訓を礎とした哲学が、教義の基礎となる。ここを履違えている以上、教義が如何に優れていても、その倫理そのものが世間と乖離すればする程、カルト化するのであって、弘教するにあたって、まさに“時に適う”という鉄則を無視した途端にバカにされ、それ故の不信を招く。ぶっちゃけ、何をしなくても自分一人の願いごとが叶う程度なら、信仰なんて成り立たない訳であり、自分が掲げた理想の為に命を懸けて精進するから、自分の理想が現実として叶うのであり、何の苦労もなく、しかも他者に迷惑かけずに自分の夢が現実の出来事に変わる事なんて、あり得ない。

人間って、自分の思い通りにならないと、それを否定する為に変な方向へ努力する様になる。例えば富裕層の守銭奴ぶりも、貧困層を見下した挙げ句、その関係性を否定した末に陥る癖であり、貧困層の憤懣も、結局は自身の立場を蔑ろにされたと勘違いするトコから始まる。つまり、精神的に引き篭もったままでは、いずれ自分自身の存在をも世間から認められなくなり、その閉塞感がやがて破壊衝動に駆られる事になる。ぶっちゃけ、かつての学生運動にしろ、諸外国での反政府デモにしろ、その根幹は、庶民と為政者の信頼関係の崩壊がすべてであり、富裕層に至っては、貧困層をバカにし過ぎて金銭に驕れるから、やがて信頼をも失う事になる。仏教の根幹にも、栄枯盛衰と生老病死の理は必然的な事として説かれる。つまり、繁栄を続ける為には、それに似合うだけの教養と実践を如何に次世代に伝えるか、その重要性を法華経を通じて説いている。三世永遠の法である法華経は、その理論故に“難信難儀”とされてきた。故に、日本での一般的な仏教系宗派では、葬式や法事の際に読む経の中でも最高位と位置し、主に富裕層や体裁を気にする職業の人達向けのモノとして取扱っている。ぶっちゃけ、学会員以外で法華経の経文を用いて冠婚葬祭に臨む僧侶は、自分トコの宗派の経文全部を把握してないと、正直“商売”にならない訳であり、故に、住職の資格を持っている僧侶は、般若心経から法華経寿量品までを詠唱できる人でないと務まらないとも言える訳であるw
人の心に宿る“鬼”の正体なんてのは、要するに自分自身の他者に対する不信感そのものであり、まして自分自身の事を信じてもらいたくても、相手を疑う以上、向こうも疑心暗鬼になる訳であり、そうなってくると、もはや話は平行線を辿る事になる。ごく一部の有識者が掲げる“脱グローバリズム”という概念も、結局は何を信じていいのかわからなくなり、迷った末の“引き篭もり主義”でしかない。今は良くても、それはやがて、自分自身をも食破る“魔性”となる。不信感から来る閉塞感は、そのまま破壊衝動へと変化し、そして、平和主義者ですら武器を構えて戦争を声高に叫ぶという矛盾を引き起こす。日本の“平和ボケ”も、それは先人の苦労を、教育現場に於いて“敗戦国だから”の一言で無視してきた結果論であり、その精神的閉塞感が、結果として子供達の情操教育を阻み、陰湿な虐待を招く訳である。そう、次世代を担う者を育てる事を放棄し、自分の栄華のみを求めた結果が、少子高齢化を招き、才能ある者を見下し、その地位向上を阻んだせいで、成長分野の産業が枯渇し、そして、ごく一部の利権を振りかざして、自らの精進を怠った事によって、本来なら避けられた悲劇を招く結果となる訳である。だから、本来、宗教というモノは、老若男女、世間的地位や民族、職業等関係無く集い合い、広く互いの意見を交換する場であり、そこから先人の知恵と体験を学び、また若者の活動を見守るだけでなく、サポートしていく関係を構築する、対人交流の拠点であり、旗印的存在でなければならない。そこんトコを踏まえて宗教を改めて考えると、日本人は事ある毎に、熊野詣でやお伊勢詣で等の“八百万詣で”をやっている…そう、最後は神様でも“最上位”とされるモノ、つまり、皇族に直結する神々を奉ったトコへ参詣する訳である。ぶっちゃけ、イスラム教徒の“聖地巡礼”と一緒で、一生に一度は伊勢神宮へ、あるいは出雲大社へ…という心理は、日本人である以上、心のどこかに潜んでいて、そこが基軸となる。でも、それはある意味精神上の“最終兵器”みたいなモンで、通常は、様々な宗教を信仰してる。そこんトコを否定して、無理矢理天照大神から連なる天皇を崇拝しろと、ごく一部の軍部が暴走した事によって、日本のすべての宗教論が、いろんな意味で破綻した…と言っていい。
ついでに言っておくが、創価学会の初代会長、牧口常三郎と、二代目である戸田城聖は、その事を批判した事を理由に、治安維持法に基づいて逮捕・投獄となった訳であり、そこんトコを履違えて侮蔑するなら、他の宗派は何故、国家権力の暴走に対して正面切って論戦をしなかったのか?そこんトコを考えてもらいたい。保身に走った結果、国の存亡に関わる事態を招いたのは、いうまでもなく諸宗であり、その結果、民衆の多くは既存宗教との深い関わりを“捨てた”のである。そう、政治家に何も期待してないのと一緒で、既に民衆は、悪い意味での“グローバル化”を望んでしまってる訳である。そこには、本来の枠組みである“国”は存在しない。だから語学に関しても英語をメインに…って考えになるし、伝統的な部分での文化がおざなりになるし、住民の意見を無視した景観保全が、結果として災害復旧やインフラ整備の遅延を招いた…税金の無駄を指摘する人程、実はその公共事業のあり方自体を論じようとせずに、ただただ守銭奴的な発言しかしない。宗教法人が“免税”なのは、公共事業の肩代わりをやっている事がすべてであり、私学の殆どが宗教絡みになるのも、本来は信徒から集めたその浄財をもって運営する事で、貧困層の若者にも学ぶ機会を与えようという基本理念があったからこそである。(で、その精神を忘れた学校法人が多い事で…w)故に、宗教を批判するのであれば、それは社会通念に立った意見を忌憚なく述べるべきであり、自身の固定概念のみで話すべきではない。どんな宗教にも、本来は先人達が築き上げた哲学をもって教義となる訳であり、そこが歪んだままで行けば、必ず世間で恥を掻く事になる。そこで信仰を捨てるか、それとも守り続けるかは自由だが、道を違えたからと言って侮蔑するのは、不知恩の咎を負う事になる…真の宗教家であるなら、いつでも他宗派との論戦を拒まない。そして、その存在を否定しない。それが、対等なる付き合いの基礎ですから…