迷馬の隠れ家 はてな本館

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心の闇は、閉塞感を増幅させる。

今日の夕方ニュースで、ヘイトスピーチ(差別発言)に関する話題が特集されていたが、結局、これの根源悪は、他者を信用できないという“心の闇”であり、それゆえに傷付け合うことでしか、互いの“痛み”を理解できないという、非常に不可解で、理不尽な話に尽きる。でも…そもそも、なんで民族差別をやるのかといえば、単純に言えば、自分が直接的に、何の影響も受けていないのに、周りの“大人”が侮蔑してるのを理由も知らずに“良い事”として真似ているからであり、また、本当に犯罪に手を染めた相手が、自分と同じ組織のものだからといって許して良いのかって話にもなる。つまり、“罪は罪”として当事者を裁けば良いだけなのに、余計な“固定概念”が、却って憎悪を膨らませ、その結果、とんでもない事態に陥っている訳である。以前にも書いた事だが、犯罪者がたまたま“在日外国人”であっただけで、それを理由に無関係な人を侮蔑する筋合いは、事件に関わってない以上は、何人たりともやってはいけない話。なのに、それを理由に“死ね”とか“帰れ”とは言ってるバカが、自分、誰に対してそんな憤懣言ってるんだと、こっちが聞きたいぐらいだ。
“心の闇”ってのは、要するに、自分の思い通りにならない事に対する憤懣であり、ぶっちゃければ、自分が抱え持った、自分自身の“不甲斐なさ”があらぬ方へ向いた姿だと言っていいだろう。しかも、自分よりも“弱い”立場の相手を責め立てる事で、自分自身の影響力を誇示したいが為のパフォーマンスでしかない。正直、ネットスラング上での“厨二病”ですわw それが表に出る“きっかけ”が、他者に対する憎悪であり、特に、自分と“違う属性”を持った相手が、つまらん粗相をやった途端、これ見よがしに叩く訳である。例えば、日本相撲協会の関係者が、初場所優勝でベロベロに酔っぱらってる白鵬の態度を叩く内容のコメントをメディアに喋ってた様だが、自分たちがやらかした“不祥事”に対して批判を受けても“横綱”としてやるべき“仕事”を黙々とこなし、大相撲の人気復活に尽力した相手を、いとも簡単にボロカスに言ってること自体、既に“恩知らず”としか言えないし、同じ不祥事をやらかしかねない。自分たちが、本当に“聖人”というのであれば、むしろその“見本”としての態度を示すの事が、本物の“聖人”であり、そういうこともできない者が、他人を批判すること自体滑稽である。
ヘイトスピーチをやってる連中ってのも、オイラから見れば、某テロリスト同然の“厨二病”患者でしかない。当然、カウンターで罵っている該当者も、言い分はともかく、“同類”でしかない。なぜなら、自分が掲げる“正義”に酔いしれ過ぎて、何のための“抗議”なのかが、完全に的外れな方向へ行ってしまってる事に気付かないからだ。ここに、オイラが常々言ってる“襟を正してモノは言え”の本質がある。差別を受ける事が嫌なら、まず自分自身を革める事が重要であり、とにかく他人から嫌事言われる前に社会貢献をやっていくべきであり、またバカにされても黙々と地域支援のボランティアを勤しむぐらいの気構えと活動を、継続していくこと…つまり、地域の人々からの信頼を得る事こそ、バカにする者達を見返す“報復”のあり方である。暴力に訴えたトコで、それ故に相手の思惑通りの結果にしかならないなら、それを逆に利用するぐらいのずる賢さも、時には必要なのである。
仏法において、時間軸の捉え方に“正法・像法・末法”という概念がある。“正法”とは、当事者、あるいは経験者が話したり指導を行っている様であり、実体験がある以上、揺るがない信念や経験則に基づいた対処法がある。が、“像法”となると指導者自身が事柄に関する経験とかがないから、記録や対処法があっても、ある意味形骸化…すなわち、時代に合わせた姿から離れてしまっている事が多くなる。そして“末法”は、そんな記録も対処法も、完全に“無意味”な状態になった姿である。実例で言えば、阪神大震災にまつわる経験談や記録も、20年前の当時、神戸市内や大阪北部など、被害状況が尋常じゃなかった地域にいた人達でも、当時小学生だった人でも現在だと20代後半〜30代が殆どだし、震災以降、京阪神に引っ越してきた人の場合だと、同い年でも“記憶がない”事になる。つまり、震災の記憶を基準にすれば、現場での経験者は“正法”であり、その経験談や記録を教科書で読んだり、現地で学んで理解しようとしてるのが“像法”であり、震災以降に生まれ、そんな苦労話が“他人事”になっている人、あるいは、現場から遠くにいて被害を受けていない人にとっては“末法”という概念になる。ヘイトスピーチの類も、実はそういう部分があって、実害を受けた者が喋る感情を“正法”とすれば、それを正当化していること自体が“像法”であり、該当者と“同じ”民族・組織・信仰に在する事を理由に、無関係な他人をバカにする事は、ある意味“末法”と言っていい。つまり、直接的な“理由”よりも、自分自身が抱える“不信感”を正当化するあまりに暴徒化した感情こそが、まかり通ってしまっているから拗れるのであり、もしも互いに共通する“敵”がいたなら、そこで一時的に手を取り合えるきっかけが生まれる…第三者的立場の者が、そういった“共通の敵”になる事自体、非常に稀な話であって、それができる度胸と、憎まれ役、汚れ役を買って出る猛者は、よほどの変態である。しかし、時代がそれを求めているのであれば、これほどバカバカしい話はない。なぜなら、それを引き受けた当事者自身が、その役目を忘れて世間を叩いてる時点でお察しである。
要するに、“心の闇”が深ければ深いほど、人間の心理は袋小路に入り込んで、さらにその閉塞感から逃れたい一心で、あらぬ方へ向いてしまう訳である。純真な心に宿る“感情”が潰れているから、余計に暗闇へと堕ちるのである。どんな宗教でも、本来はそれを糾していく為の哲学を学ぶ場であり、心の救済を行う為の修行を信徒に課すのである。但し、その“概念”が時代に合っていなかったり、本来救済を求めている相手を侮蔑する行為がまかり通っている状態では、何の意味も成さない。トランスジェンダー男児が、狂信的なクリスチャンの両親に罵倒された挙句自殺したケースも、まさに“救済放棄”した宗教観が、まかり通ってしまったケースと言っていい。ぶっちゃけ、目の前の“真実”を避けて理想を唱えたところで、なんの救いにもならないどころか、双方が苦しむだけである。本当に相手を理解し、共存を望むのであれば、過去の因縁や世間の目など関係ない…目の前の相手を信じ切る勇気と、一緒に人生を構築していこうという心意気が、自分と、そして目の前の相手を救う唯一の手立て。それができない以上、どんな侮蔑も叱責も、何の意味も成さないどころか、余計に自分が嫌になるだけ。それ故に、他人と“違う”事を理由に侮蔑するのであれば、歴史上の同じ過ちを、自分自身がやってしまうことになる。それでもいいなら、ナンボでもバカにすればいい…自分自身がやった事に対して、本気で責任を果たせるのであれば。