迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

どんな“依存症”も、拠り所を失った反動から…

IR関連法…いわゆる“カジノ解禁”に関わる問題で、何かとギャンブル依存症を“問題視”してる人が多いようだが、そもそも、ギャンブルに限らず、様々な“依存症”の原因は、ブロマガでも解説してるように、自分自身の居場所…拠り所を見失ったことによる精神疾患であり、単純に施設や行為の“排斥”を行ったとしても意味がありません。依存症の多くは、他に興味が移ったり、確固たる“拠り所”が確保されれば、大概は改善するモノであって、そのために必要なのは、その依存症の“本質”を見抜くことです。つまり、なんでこんなことになったのかの“根本原因”を突き詰めないと、制限をかけても無駄になるだけです。
日本におけるギャンブル依存症の殆どが、パチンコやスロットの常習であり、ごく稀に公営競技や振興くじ(totoとかロト6等の宝くじ)に高額購入を行うケースがある程度です。しかし、大概ギャンブルで叩く人の殆どが、実害が少ない公営競技…しかも競馬を叩く訳で、本来であれば“違法な賭博”であるパチンコやスロットを叩く人は皆無です。念のために言っておきますが、公営競技や振興くじは、刑法における“賭博・富くじの禁止”事項に対して、胴元(主催者)を国や自治体で行うこと、及び、その収益を公共事業や各種の助成金として活用することを条件に開催することができる“特例”をもってやってる訳であり、そのために競馬法やモーターボート法などといった、競技の施行に必要な法整備が成されているのである。つまり、収益が巡り巡って国民に、あるいは地元に“還元”されることが条件の下で開催されているのであり、その法的な枠を無視して営業してるパチンコやスロットの方が、よっぽど“社会悪”であるのは言うまでもない。だが、メディアの多くは“広告主”としての旨味があるパチンコやスロットに対する“法的規制”に反発してるトコがあり、故に、ギャンブルの“社会悪”を公営競技に振り向けてきた経緯がある。言い方を変えれば、メディアによって形成された“精神疾患”であるのが、日本における“ギャンブル依存症”の正体であり、そこに対してメスを入れない限り、これは改善されることはあり得ない。
さっきも言ったが、依存症の殆どが、精神的な“拠り所”を見失っていることに起因してる訳であり、明確な“拠り所”を有してる人には、まずそれは見受けられない。もっと言えば、ギャンブルをやっていても、その所作を弁えている人は、自滅するほどのめり込むことはない訳であり、加減を知っているからこそ“引き際”を見極めてやめることができる。しかし、精神的な拠り所を見失ってる人は、故に自分の心の虚しさを満たそうとしてのめり込むのであり、金銭や時間の無駄を気にしなくなる訳である。故に、没頭する方向性を間違えた挙句、自己破綻するのであって、“拠り所”が別のトコにある以上は、どんなに遊んでいても、キリのいいトコでやめることもできるし、全くやらないで済むこともある。
先月、ラジニケのリスナー招待で京都競馬場へ行ったという話をニコ静のコミックとして挙げた訳だが、単に“競馬を楽しむ”といっても、ギャンブルとしての要素で楽しむだけがそれではない…現場の裏側を知る事、誘導馬やグリーディング中のポニーと触れ合う事、場内で開催されている関連イベントに参加する事など、競馬場だからこその“楽しみ方”ってのもある訳で、そこんトコを無視して“競馬は害悪”と罵るのであれば、世の中の全ての遊興…当然、テーマパークや博物館といった文化的施設も“排斥対象”に含まれることになる。その結果がどうなったかは、ここで説明する必要もなかろう。拠り所が明確な人は、故に同じ場所にいても楽しみ方が違う訳であり、そうじゃない人ほど、周囲に惑わされ流されるのである。これは宗教でも同じで、指針が明確な人ほど、その実証を示すために自分の襟を糺せるが、単に“原理主義”とか“僧俗分離”を唱える人ほど、実はエエ加減である。わかりやすく言えば、多様性を否定する人ほど、自分の意に反発する人を排斥する割に、自分の意見は他人に否定されることを一番嫌う。だから、簡単に古の宗教文化を破壊したり批判することに躍起になる訳で、それが“原因”で、何の罪もない同胞が批判され、余計な差別を受けるのである。逆に、多様性を認めることができる人は、どんな仕打ちを受けたとしても、それを含めて相手の行為を許すことができる…自分自身も、分相応の粗相を過去に犯してるという自覚があるからだ。
故に、自分自身で指針を見失い、“なんの目的”でそこに行くのかを自覚してないから、そこに依存するのであり、明確な目的と最終的に“どんな自分”になりたいかという目標があるなら、無駄に浪費する生活から脱却することができる。目指すべき目標があり、その“手段”として一番“正しい方法”とは何かということに目覚めない限り、同じ過ちは必ず繰り返される…それが依存症を患った人達の一番恐ろしい部分であり、そうならないために必要なのは、排斥ではなく本質的な部分で“付き合う”事なのです。