迷馬の隠れ家 はてな本館

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右派も左派も、根元は一緒w

オイラ的な感覚でモノを言わせてもらえば、いわゆる“右派”な意見を述べる人や、そういうのに憧れる人は、大概は学歴的には最底辺…良くて大学中退、大概は高校中退であることが多く、逆に“左派”な意見を述べる人や、そういうのに憧れる人ほど、学歴的には超がつく程のエリートであったり、職業でもそういう“頭脳派”を誇る人が多い。しかし、残念な話をするなら、どっちもどっちであり、中立中道な立場の者を、それぞれとは“逆の立場”だと勘違いして総攻撃することが多いw(てか、いじめの構造も大概はコレで、エリート気取りが手を汚さずに、実行犯的な輩は、そういうのに唆され易い脳筋な連中が多い)だが、総じて言えるのは、その根元的な部分では、実は大真面目に将来や国(組織)の行く末などを考えた上で行動してるんだが、どうしても世間と大幅にズレてイタい集団になりやすいのは、それゆえの“違い”が双方ともにイマイチ理解しがたいトコがあるからこそである。ぶっちゃけた話、“右派”は“大人になりたい”と背伸びするあまりに、“左派”は“子供のままでいたい”と願うあまりに、自分自身の姿そのものが見えなくなってしまった挙句、その方向性をも見失った“迷子”の総称でしかない。
まずは“右派”に陥りやすい部分を解説すると、学業とかでは成績不振でも、いち早く社会に出て“一人前の存在”として周囲の大人に認めて欲しいから、あれこれと問題を起こしやすい反面、世の中の“汚点”を直に見聞し、体感する機会が多い分、経験からの直感で物事を判断する術に長けているトコがある。だから、失敗することがわかってても動じず、それを“次”に生かそうとデータを蓄積させることができるし、故に責任感も強い…が、自分の経験こそが“正しい”と凝り固まると、そこからの関連性や応用を理解できない。それが“脳筋”という風に罵られる要因であり、感情のコントロールも殆どできない。だからと言って侮ってはいけないのは、無駄な知恵や知識がない分、迷いも少なく、他人のせいであっても“自分のこと”として受け止め、自分自身が犠牲になる事をも厭わない性格になる。これを他人にも強要する者は、むしろ“エセ右派”であって、そこには滅びしか存在しない。
で、“左派”に陥りやすい人は、とにかく学歴を誇りがちである…むしろ、それしか取り柄がないモンだから、相手が自分よりも低い学業成績だと、それを“理由”にしてバカにする。そのクセして知恵や知識が豊富にある分、実践での失敗を恐れるあまりに臆病なトコがあって、確実に成功する術以外は絶対に手を出さない。だから、勝負を嫌って手堅い方法でしか行動しない代わりに、時間管理や緻密な作業は得意中の得意であり、整理整頓がうまい。だから、計画通りにことが進まないと機嫌が悪く、しかも自分の失敗であっても、その“原因”を他人にすり替える巧妙さがあるが故に、自分自身が“汚れ役”として表に出ることは絶対にしない…もしそうなるだろうと予測できると、忽然と姿を消すのは毎度のことである。逆に言えば、自分の責任は自分で負うと明言する人は“左派”とは言えないのであり、追い詰められると自決するのは、精神的に潔癖なだけで、他人の手を煩わせる事を嫌っての行動でしかない。
さっきも言ったが、どっちの考え方も、その“出発点”は非常に大真面目で、且つ、共通するキーワードがほぼ合致してるトコがある。特に“世界恒久平和”とか“基本的人権”とか、そういった壮大な請願に関してはほぼ共通してるのに、そこに至る概念が、互いに相容れられないと反発し合う訳である。その最大の違いは、大人として振る舞いたいがために感情的になるか、子供の時から描いた世界観を実現させたいが為に暴力を振るうかの差である。だから、物理的に痛いか、精神的に痛いかで、どっちも暴力的になりすぎて、自分を“見失って”いることすらわからないまま自滅する訳である。
“共通の請願”があっても、互いに相慣れない最大の原因は、とにかく“万民に認められたい”という欲であり、そこには“相手を思う”という尊敬や賛辞といった概念は存在しない…とにかく“自分正義”が大前提であり、それをもって“万民救済”を訴えてる時点で、矛盾が生じる訳である。自己の正義が“正解”ではなく、様々な“正解”が存在するからこそ、場合によっては救済できずに漏れる(ハブられる)存在が出る訳であり、その人たちをも救済するには、今までの常識による方法では“失敗”する訳であり、それゆえの恨みを買うことは必然的な話である。それは何も、少数派の人々が報われないまま消去されることだけでなく、様々な部分で生じることであり、それは避けられない。そこんトコが“理解できない”が故に衝突してしまう訳であり、仮にその“結果”がどういうモノであっても、純粋に受け入れられないのであれば、そこに真の意味での“正義”は存在しない…心の内では解っていても、誰も止められない状態に陥ってる以上、そこには罪悪感しか残らない。そこと真正面から向き合い、今、本当に“何”が重要なことなのかを正しく受け止め、先に進むべき道を示してこそ、初めて互いの違いを認め合い、共存することができる。そこを“否定”してる限り、対立は無くならないでしょう…そういう状況を望む限りは。