迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

迷いなき人生って…。

昨日の事件、どうしてあんな事になったんだろう?そう、17歳の人生の迷子(“少年”ではない!!)が、卒業した小学校の教員3人を殺傷した事件である。殺されたベテラン教師は、どうして自分が…と思いながら亡くなったと思うと、気の毒としか言い様が無い。だが、オイラはこの“迷子”を庇うつもりは無いが、コイツもコイツなりに“気の毒”だと思ってる。なぜって、オイラも小学生の時はイジメを喰らった人間だし、まして信用できる友達すらいなかった。だが、(捻くれ者ながらも)全うな人間として今日まで、生きてきた。オイラとコイツの差って、いったいどこにあったのだろう…。

そんな時に思うのは、“なんで宗教を嫌う人は、コイツらを救う事より、排除する方を考えてしまうのだろう”という事。確かに、人生の“落ちこぼれ”かも知んないが、こういう事件になる前に“救いの手”はいくらでも出せたハズだ。しかし、時間を惜しむのか、一度としてコイツらを見ようとしない。いや、見たくないのかも知れない。どんな宗教でも、こんな人にこそ“救いの手”は必要だとしている。でも、いざ実践となると、足が竦むのか行動できない事も多い。なぜか?
まして“宗教=カルト”と考えてる人は、“おちこぼれ”は社会悪として“排除”を訴える。(いや、そうじゃない人もいるが…)そんな時に思う、“あなたに帰る場所はありますか?”と。
“帰る場所”を“=家族”とする人は、その家族がいなくなったら、どこに行きます?“=親友”という人は、本当にそこがあなたの事をキチンと受け止めてくれると思いますか?“=故郷”と答えた方は、いつまでもその場所に自分のいる場所を残してくれてると思いますか?オイラは全て否定している。なぜなら、それは“永遠に存在しているとは限らない”からである。自分の両親だって、いつかは惜別の時が来る訳だし、信頼できると思った友達だって、自分の気まぐれや意見の食違いが元で裏切る事だってある。自分の生まれ育った場所といえども、様々な災害(震災や紛争等)で追い出される事だってある。となると、どこにも“自分が帰る場所”とキチンと定める事なんて、できないと思う。だけど、心の拠り所が“ある”のと“ない”では違うと思う。ただ、それがどこなのかで違うと思う。
オイラはたまたま、創価学会員ゆえに、その拠り所は御本尊の前であり、その教学(宗教哲学)を学んで、それが自分の生き方の根本となっている。もちろん、キリスト教なら聖書だろうし、イスラム教なら“コーラン”だろうし、仏教の他宗派もそれぞれの教学を持ってるハズである。しかし、その話をすると、大概は“ヘンな目”でこちらの様子を見て、さらには避けようとする。でも、オイラは思う。そうやっていつまで、自分の“闇の部分”から逃げてるんだろうと…。
人生を達観した生き方をしてる人の話は、異口同音に“我が人生に、一点の曇り無し。”と言っている。そりゃ、若い時は大いに悩み苦しんだだろうが、後悔も苦労も全ては自分の生き様を磨きあげる“研磨剤”として受けてきた訳で、それゆえに誇らしげであり、輝いた姿である事が多い。ある人曰く、「まっすぐな道に迷う人無し」。そういった“名も無き偉人”達の名言が、この“迷子”の心にもっと早く届いたなら、多分こんな事にはならなかったのではと思うと、オイラは本気で悔しい。
ただ、世間に怯えて引き蘢っていたんじゃ、小さな“SOS”を気付いてやる事はできないし、救いようがないのも確かだ。だが、引き蘢る原因がどちらにあるかはともかく、ただ一人でも“信じる心”を持って、この“迷子”を見守る人が近くにいたなら、その人の為に迷わず生きる事だってできたかも知んない。
みなさんは、どう思いますか?