迷馬の隠れ家 はてな本館

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我が青春の“あどりぶランド”

どうやら、“あどラン”に関する情報を求めている方もいらっしゃる様なので、オイラの“あどラン”に対する思い出話を、ここいらへんで書いておこうと思う。
放送開始から終了まで、14年2ヶ月にも及ぶ“局アナのお祭り騒ぎ”番組だった“あどりぶランド”。MBS在籍アナウンサー全員集合だっただけに、単なるバラエティー番組ではなく報道番組としても対応できたという強みもあって、毎週水曜の深夜は、それこそ眠気との戦いを繰り広げながら、ずっと見ていた。(それゆえにオイラがハマったオジアナも…。)

この番組が始まったのは、今から21年前の1984年1月25日。(以前“My favorite announcer”シリーズでもちょっと触れたが。)本来は違う深夜番組を制作・放映するまでの“暫定番組”(つまり、隙間埋め番組)として始めた様なんだが、あまりにも好評だったのと、担当できそうなタレントがいなかった為、結局センバツ期間(MBSではセンバツ期間中、全ての自社制作深夜番組が休止する“習慣”がある。)終了後も継続して放送される事となった。以後、紆余曲折しながら水曜深夜の“定番”となった訳である。(現在は“たかじんONEMAN”がこの時間を引き継いだ。)番組そのものはMBS在籍の現役アナによる“我侭企画”をほとんど編集せずに放送し、かつ視聴者に不快感を与えない程度に放送局の裏側や情報を放送していった。一時期は90分まで時間延長したが、基本的には1時間程度の番組として放送された。
現在の放送で例えれば、昔の“●れたらイイねッ”+“水曜どう●しょう”みたいなモノで、ある意味制作コストの上ではタレントを使わない分安上がりだが、ロケで怪我を負うと労災扱いで大騒ぎになる事もしばしば。その分、今までTVに出る機会の無かったラジオ畑のアナが、“あどラン”を通じて注目される事もあった。特に蜂谷アナの場合、この番組がきっかけでMBSの競馬アナとして認知されると同時に、マラソンの企画がきっかけで“ランニングバカ”(言ってイイのか、そんな事?)になった。(彼に関する詳しい話は、後日“My favorite announcer”シリーズで取り上げます。)また、平松アナの芸達者ぶりや緒方アナの“役者バカ”ぶり(特に時代劇SP時はスゴかった。)は、知られざる“素顔”としてマニアの間では、よくウケた。そして、管理職クラスのベテランアナが、後輩の若手アナに番組内で“報復”を喰らいまくってたのも特徴的で、この事があの当時のMBS在籍アナの“結束力”を生み出していた様にも思える。
しかし、繁栄あるモノには必ず衰退・滅亡の運命もつきもので、“あどラン”も例外ではなかった。千里丘放送センター時代は、番組そのものの勢いもあったが、それ以上にアナ一人ひとりが輝いてもいた。が、梅田・茶屋町に本社が移転したあたりから、雲行きが怪しくなった。その決定的なきっかけとなったのは、オイラの感では田丸アナの移籍と高梨アナのアナウンサー室長就任、そして努兄の降板と見ている。(“努兄”については、“My favorite announcer”vol.1参照。)努兄降板はともかくとして、NHKから移籍した田丸アナは、ある意味“あどラン”の空気をブッ壊した犯人(てか、他のアナがいじり過ぎて、勝手にキャラを壊した)でもあり、高梨アナも藤本アナの跡目を次いで室長になった途端、(元々真面目人間だったがゆえに)キャラが暴走し過ぎた部分があった。
流石にこのあたりから、オイラも番組に対して嫌気がさした。努兄は、“あどラン本”(3冊発行されている)の2冊目(“まるのまんまあどりぶランド”というタイトルの本)で、『画面に少しでもごう慢さが出てはならない…(略)そして、常にユーモアの精神を忘れてはならない。』と記載してるが、その精神が完全に失われたのが、この頃あたりと推測している。(この本は、国会図書館都道府県立の大型図書館に保管されてるハズなので、参考までに読んでもらうと有難い。)
ついに放送が終わる事となり、その放送終了を告げる時、この時のアナウンサー室長であった阪本アナ(彼も“My favorite announcer”シリーズで後日、取り上げます。)の表情は、少し淋しげに映った。それだけMBS在籍アナにとって、自由にバカ騒ぎできて、しかもそれが番組として成立していただけに、惜別の思いはあったのだろうと思う。オイラも覚悟はあったが、この番組が終わってからの迷走ぶりは、目を覆いたいぐらい痛い。そしていつしかこの番組は、オイラの青春の1ページとして記憶に残っていくだけなんだろう。随分、オイラも歳を取ったモンです、ハイ。