迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

My favorite announcer (vol.3)


DJひろゆき@海の見える放送局
ひろゆき@サウスパーク
お待たせしました、“我等ラジ関ジェネレーション月間”第3週目。そして、“My favorite announcer”シリーズ第三弾。かつてはCRKの“カリスマアナ”とも言われた、奥田博之アナの話です。
とはいっても、殆どオイラの覚えてる範疇の話と推測で話が進んで行きますが、そこは過去の資料があまりにも少なすぎる事と、TVカメラあるいはマイクの前から姿を消されて随分なりますから、オイラもあんましエラそうに紹介できる程の調査ができてないのが事実。しかし、そこはオイラもオジアナヲタクを伊達に長年やってる訳ではないんで、そこんとこはご理解を。
(今回はオイラオリジナルのイラストと、“サウスパーク”の似顔絵作成所で“錬成”したのを用意しました。お好きな方をどうぞ!!)

オイラが奥田アナの事を知ったのは、小学生の頃。丁度CRKからフリーになって、“2時のワイドショー”でMCを始めた頃である。最初にその姿を見た時から、全身から神戸の、それも海辺の風景が似合うオーラを感じてた。その当時は、まさか元はCRKのアナだったなんて知らないから、不思議で仕方がなかった。今回の特集で取り上げようと思い、調べ物をしていて初めてこの“オーラの謎”が解けたのである。(いやはや、こんな時から“あっち”の素性があったのね、オイラって…。)
じゃ、CRK在籍時はどんなアナだったのだろうか、その謎を追いかけているうちに、今月の特別企画“我等ラジ関ジェネレーション”が出来上がった訳である。なにせ、奥田アナとCRKとの関係は、一言で片付ける事は不可能だったからだ。
奥田アナがCRKに入社したのは、今からおよそ50年前、丁度この時期はまだこの放送局は“ラジオ神戸”(神戸放送)と名乗っていた時代であり、どうしてもTV放送に必要な放送免許を取得せんが為に当時の郵政省とバトった時代でもある。(その結果生まれた放送局がKTV関西テレビサンテレビである。この話自体は後日やるので少々お待ちを。)また、この時代はプロ野球中継をやってる放送局なんてNHKかココしかなかったと言って良い程の状態だった為、スポーツ実況アナは放送局にとってある意味“花形役者”だった。彼自身もそんなアナの一人としたデビューした。また、KTV開局と同時に松本暢章アナ(あれ?と思った方、これも後日説明します。)が出向→移籍となった為、どうしてもエース級のスポーツアナの発掘・育成が急務となった。そこで登場したのが奥田アナだったのである。また彼は、京都人(実は京都出身)特有の“遊び心”を持ち合わせていた為、オフ期の電リク番組でも、その才能を遺憾なく発揮し、当時の神戸娘のハートを鷲掴みした…らしい。
しかし60年代後半に入り、他の放送局が阪神戦メインのプロ野球中継をやる様になると、阪急戦がメインだったCRKは窮地に追い込まれた。そこで、プロ野球中継そのものを休止し、電リクオンリーで1年を通すスタイルに変更されたのである。(これは先週更新分参照。)恐らくこの時から、CRKと奥田アナの間にちょっとした“溝”ができたいたのかも知れない。しかし、この時期にフリーアナにならず残る方を選んだのは、恐らくいつかはプロ野球中継が復活するんじゃないかという思いがあったからだろう。
そして、その思いは違った形で実現する事となる訳だが、それは奥田アナの思いとはかけ離れた…というより、裏切られた…形式だった。これも先週の更新で書いた通りの事なんだが、それどころか、スポーツアナとしてよりパーソナリティーとしての需要が、奥田アナには課せられてしまう事となる。恐らくこの事が結局、CRKとの決別を奥田アナが決意するきっかけとなったと思われる。こうして、彼は45歳でCRKから“独立”する事となる。
で、スポーツアナとしての願いを叶える為に、サンテレビプロ野球中継“サンテレビボックス席”の実況アナとして契約を結ぶ訳だが、それ以前に奥田アナの独立後の行動を狙っていた放送局があった。それがYTV読売テレビFM大阪である。特にYTVの場合は、どうしても彼のカリスマ性を生かした昼間のワイド番組を、しかも全国区で放送したい思惑があった。また、FM大阪も朝から昼間までの放送時間のリスナーターゲットを、従来の音楽マニアから主婦層に切り替えたい時だった。そこで、お互いにCRKと関係があった事を利用して、ちょっとした“争奪戦”となった訳である。その結果、平日の朝はFM大阪で、昼間はYTVのあの番組で、そしてシフトで担当が巡ればサンテレビでナイター中継と、実にタフな活躍をこなして行く事となる。(サンテレビの中継で、週末の実況担当が多かったのは、この影響だったのだろう。)オイラもこの中継を見た時、“このオジサン、一体何者なの?!”と思ってた。だが、そこに映ってた横顔は、“2時のワイドショー”では見せない、本当に“野球”が好きな人の笑顔だった。そんな印象があって、(オイラは本来アンチ阪神なんだが…)奥田アナが実況の時の“サンテレビボックス席”は、好んで見ていた。また、シーズンオフ期に放送していた“アイラブ・ユーラブ・タイガース”(通称“ラブトラ”)も、なにげに見ていた記憶がある。とにかく、あの時代の奥田アナはオイラにとって、ダメ猫…もとい、阪神タイガースの“魅力”を教えてくれた先生みたいな存在でもあった。(現在は元の“アンチ阪神”だけどね。)
そんな奥田アナも、オイラの記憶が正しければ、震災直後も実況してたとは思うのだが、そのオフあたりからKBS京都の“エリアジャーナル”でキャスターを務める様になり、この番組の放送終了(降板?)とともに、ブラウン管からその姿を消した。これ以降、オイラもその行方が分からない状態なのである。(正確には、まだ存命されているのは把握してるのだが、現在どんな活動をしてるのか、実は掌握しきれていない。)ただ、震災でCRKのスタジオが全壊した時、流石に心配して様子をうかがっていたみたいだが、決して彼は、そのマイクで話す事はしなかったという。現在でも多分奥田アナは、CRKでは自分の本当の気持ちを話してはくれないだろうと思う。でもそれは、彼自身の罪と罰なんだと思う。
奥田アナと同世代のアナが、現在でも元気にマイクの前でしゃべってるのを聞く度に、潔くマイクの前を離れた奥田アナの後ろ姿を思い描くのは、なぜだろう…。