迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

My favorite announcer (vol.4)

“それ行けテンポイント、鞭などいらぬ、押せ!“
“菊の季節にサクラ、菊の季節にサクラが満開!!サクラスターオーです。“
“今年もあなたの、そして私の夢が走ります。”
もう、お解りですよね、そうです。今月は“きよぽん”こと、杉本清アナの話です。とはいえ、ファンならば既に知ってる話も多いですし、本人著作の本(“あなたのそして私の夢が走っています”や“これが夢に見た栄光のゴールだ”など)を一読すれば、ある程度の範囲できよぽんの“素性”というモノが解るハズ。でも、オイラならではの切り口で、きよぽんの“意外な一面”を紹介していこうと思う。

意外と知られていない話だが、実はきよぽんは“レコ大(輝く!レコード大賞)ホルダー”だっていう事をご存じだろうか?と、言うのは、1980年に中央競馬8大競走(桜花賞皐月賞・春季天皇賞オークス・ダービー・秋季天皇賞菊花賞有馬記念)を全て実況して、それをレコードで発売してみようという企画が立ち上がり、それを実際に行った訳である。んで、このレコードが思わぬヒットとなり、レコ大の企画モノ(楽曲以外)の部門で賞を取ったのである。当然だが授賞式(東京)に出席した訳だから、記念撮影にも応じた訳だが、錚々たる歌手や音楽関係者の中に、場違いな局アナ…しかも関西の競馬実況アナが“紛れ込んだ”状態だったから、かなり“浮いてた”らしい。(そりゃそうだな、TBSアナならともかく大阪の、しかもJNN系列外のKTV在籍アナだから、この当時は。)
きよぽんがKTV定年後、タレントとしての活躍の場を広げるきっかけとなった番組が“ハンマープライス”なのは知ってる人も多いだろうが、実はこの話、最初は断るつもりだったのだ。しかし、この番組のプロデューサーが、『競馬実況を聞いて、その冷静な判断力を見込んでオークショニア役をやってほしい』と言ってきたので、引受ける事にしたとか。で、この時に共演していたとんねるずの二人に、自分がもうすぐ定年である事を話したところ、『だったらボクらの事務所に来ませんか?』と誘ってくれたので、彼等と同じ事務所にしたとか。(現在は所属先を変更したとかしてないとか…)
vol.2でも紹介したが、“園田の仙人様”吉田勝彦アナとは同い年でしかも誕生月も同じ2月。しかしアナウンス歴は吉田アナの方がデビューが早かった(19歳@春木競馬場)ので、きよぽんも実況技術を磨く為に園田競馬場へ通った事がある。(今でも時折だが“お忍び”で園田へ行く事もあるらしい。)つまり、“吉田節”をTVでの実況中継用にアレンジしたのが“杉本節”のルーツであり、その進化系が馬場アナをはじめとした多くのKTV競馬実況アナの礎となったのである。
しかし、実はKTVだけじゃなく、他の放送局にも影響を与えた事は、あまり知られていない。これは本にも書かれているので一読されると良いと思うが、草野仁アナ(“え?”と思われるが、彼は元・NHKのスポアナです。)が競馬実況をやりたくて志願したら、スポーツ中継のプロデューサーに“一回、KTVに行け”と言われて、わざわざKTVまで行って指導を受けたとか。つまり、現在の“ヒトシくん”誕生秘話にもきよぽんは関わってる訳である。(ちなみに、きよぽんが定年・フリー化するまでは、JRA賞授賞式の司会進行役は、草野アナがやってました。)
JRAサウンドコース”のDJ(てか、パーソナリティー)として登場する様になった当初、J-POP系の歌手(アーティスト)が理解できず、とりあえず覚えようと書き込むメモ帳に、“ハ●ーキティ”柄もシステム手帳を使用してた。理由は簡単、“自分に似合わない絵柄の手帳なら、イヤでも覚えるでしょ”だって。ちなみに馬場アナは“クマのプーさん”マニアらしく、どうやらこの事がヒントになってる様である。(今でも使ってるのかな?)いやはや、意外と“おちゃめ”な一面である。

今年からはKTVの中継で宝塚記念の実況はしないとの事だが、そもそも定年時に“引退”するつもりだった。が、多くのファンから支持されていた背景を受けて、レース数を限定して継続していただけなので、本人としては淋しさ半分“やっと肩の荷をおろす事ができた”との事。(実際はもっと早く、馬場アナや石巻アナに譲りたかったらしい。)でも、今後も競馬に関わる仕事は続けるとの事です。とにかく、競馬一筋から転じてタレント“もどき”な活動をしていますが、これからも無理をしない“自然体”なスタイルで活躍されると期待してます。