迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

“憂さ晴らし”をした後の“懺悔”

福知山線の事故から今日で2週間、愛する人を事故で亡くされた方のJR西日本に対する“恨み”は今も消えません。が、今回の事故には何の関係のない人まで、JR西日本の駅員や乗務員に嫌がらせをするのは、見当違いです。確かに、乗客の安全より利益を優先にした経営方針や、重大事故が起きた後の対処法のマズさは責められて当然ですし、事故防止策をなんらやってないだけではなく、被害者に対する接し方の“横暴”ぶりは、怒りを通り越えて“呆れた”としか言い様が無いのも頷けます。が、だからと言って、置き石や踏切の無謀横断、挙げ句の果てには非常停止ボタンを無闇に押す様な行為はやっていい訳は無く、まして安全運行の為の整理を行っている運転士や車掌、および駅員を殴ったり罵るのは、他の利用客に対する“迷惑行為”以外の何者でもありません。

これはオイラが単に、“鉄道旅行マニア”だからというだけでなく、一般常識上の“マナー”の低下に対しての“怒り”として、話しているのです。
現代社会は、とかく“時間”と“財力”、そして“プライバシー”ばかり優先して、根幹の“豊かさ”を履違えてる様です。それ故の“ストレス”が蔓延し、なんらかの“ガス抜き”を必要としてる事は確かに感じます。が、その捌け口を、例えば不祥事を犯した企業に向けてみたり、民族感情から差別的行為を露骨にやってみたり、失敗を上司に(あるいは部下に)押し付けてみたりする行為による方法でしか発散できないというのは、どういう事なんでしょう?
また、“自分は○○ではエラいんだ”とか、“この世界ではオレは王様だ”みたいな態度をとって威嚇し、事が起きれば他人に濡れ衣着せて“雲隠れ”したり、責任逃れをする為に他人の振りをしたり…。これじゃ、子供を叱る事もできないから“犯罪スパイラル”を脱却できない訳である。
どんな恨み事も、当事者以外が責任を持つ必要はないし、関わる必要性もない。しかし、だからと言って“他人事”として聞き流してはいけない。特に同じ業種の関係者なら、類似事例なんて日常茶飯事だし、同じ趣味を楽しむ者も、該当する行為に及んだケースも多々あるだろう。それを互いの立場は違えど諌め合って、初めて“防犯”の役割を果たす、とオイラは思う。(オイラも、オジアナヲタクの度を超えた行為をやった“前科犯”だから、あえて自分に対して言ってるんだが…。)
本当の意味で、犯罪を拡大するのも、止めるのも、同じ立場の人間でしかないと思うし、どんなに謝罪しても失われた“モノ”は、帰ってきません。たとえ、どんなに反省していても、被害者がその思いを信じてやる気持ちと、犯罪者が被害者に立てた“誓い”を受け止める思いが無ければ、いつか同じ過ちを犯す可能性が出てくるし、再犯を犯したからといって、“やっぱりな…”という気持ちで相手を見下す態度を取れば、いくら被害者といえども犯罪者と“同罪”です。なぜなら、最後までその犯罪者を“見守る義務”を放棄したのと同じですから…。
痛たましい事故や事件も、時間が経てば世間は忘れ去ってしまうが、当事者は“積年の恨み”となって子孫末代まで語っていく事でしょう。しかし、それを止めるのは他ならぬ“当事者”自身です。
“こんな出来事があって、ああなったけど、だからといってアンタが仇を取ろうとは思わないで。その恨みはいずれ、アンタの子供達の苦労を増やすだけだから。”と、教えられる大らかな気持ち、世界中のみんなが持っていたのなら、戦争や差別、貧富の差による矛盾なんてのは、この世から“根絶”できるんだけど…。