迷馬の隠れ家 はてな本館

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My favorite announcer (vol.6)

なんだかんだ言って、今回で6回目となる“My favorite announcer”本編。(NEXTも入れると9回目がだ…)今回取り上げるアナは、かつてラジオたんぱの“西の双璧”と呼ばれたうちのひとり、北野守アナの話です。未だ多くの競馬ファン(特に関西)に支持されている、長距離戦実況の名手にして、京都競馬場が一番似合うたんぱアナ。しかし、2003年12月の阪神開催での実況を最後に現役を引退したその理由とは…。オイラなりの視点で見た“まもたん”の足跡を、この際綴ってみる事にした。

生まれも育ちも滋賀県栗東市、しかもその昔“栗太郡栗東町”としてまとまる以前から現在に至るまで、ず〜っと生活の基盤をこの地に置いている。そもそもアナになろうと決心した理由が、たまたま聞いてたラジオから新人アナの紹介があって、そのうちの一人が自分が進学する大学の卒業生だった事がきっかけだったという。その後大学を通いながらアナウンスの基礎を学ぶ為に、“生田教室”(詳しい名称は失念したが、関西では名門のアナウンサー育成のスクールだった。)に通い詰めた。そして、夏休みに九州出身の先輩に連れられて、初めて皿倉山に登って小倉競馬場を見た時、“いつか、あの競馬場を訪れたい。”と心に誓ったら、まさか仕事で行くハメになるとは考えもしなかったらしい。
同い年の藤田直樹アナとともに、関西の競馬ファンから“ラジオたんぱ大阪支社の双璧”と言われる様になったのは、およそ20年ぐらい前。その頃から、菊花賞春の天皇賞では“定番の声”となった。他のアナと違って、常に“です・ます”口調で進行し、どんなに興奮した状態でも、決して声が裏返らない(元々、高音域の澄んだ声だったから、裏返った声でも解らない。)実況は、聞いてる人々に安心感をも与えてた。が、その“名調子”が、“あのレース”を境にダメになってしまった。2001年の菊花賞である。
その前兆は、実は春先の人事異動まで遡る。この時、長年一緒に仕事していた藤田アナがその年の桜花賞実況を最後に、若手アナと入れ替わりで東京本社へ転勤する事となった。(後に藤田アナは、翌年の夏の小倉開催で大阪支社に戻って来たのだが…。)この事が北野アナに精神的な揺らぎが出始め、それが一気にカタチとなって吹き出たのが“あの失敗”である。そう、マンハッタンカフェエアエミネムの認識間違いである。本来なら、補佐役になってるアナが放送席の後ろから間違いを指摘し、補正しながら実況するのだが、その指示を行ったアナのタイミングが合わなかったのか、北野アナが全然信用していなかったのか定かではないが、結局最後までチグハグな実況となり、多くのファンや関係者に迷惑をかけた。そして一年近く北野アナは、実況席から姿を消した。(その間中、大阪支社勤務経験者でフォローに入る事もしばしば。)そして、2003年12月、有馬記念が行われた中央競馬のその年の最終レースになる、阪神競馬第12レースファイナルステークス。このレースが終わると、中央競馬のその年の開催が全て終了する。この締めくくりのレースで、彼はラジオたんぱのアナとして最後の実況を行った。それはまさに、往年のG1実況の様な鋭さを持った実況だった。誰しもが、“まだこんな実況できるのなら、来年はG1復帰かな…”と思わせた。が、それは彼なりのファンに対して、“惜別の実況”を行ったモノだったのだ。
現在でも、一部のG1予想イベントで顔を覗かせるものの、実況アナとしては事実上“引退”して、アナウンスの講習会や地域イベントの司会等をこなしている様だが、風の噂では、名古屋競馬でのあるイベントで、涙をこぼしていたという。本当は定年(たんぱの規定で、延長を申し出なかったら、55歳で“定年”となるらしい。)を理由にして引退をしたくなかったのであろう。しかし、あの時の失敗で崩れてしまったベテランアナとしてのプライドが、今でもその気持ちを押さえ込んでしまってるのなら、仕方が無いのかもしれない。
いつか消え行く声ならば、あの時もっとキチンと聴いてあげるべきだったと後悔しているファンも少なくない。(オイラもそんな一人。)あれ程までに京都の菊が似合うアナは、今後現れる事は無いだろう。