迷馬の隠れ家 はてな本館

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My favorite announcer (vol.7)


ハネヒデ近況今月の“My favorite announcer”は、今まで紹介したアナよりも若いです。とはいえ、既に50代なんで、それと今月は2回目の“我等ラジ関ジェネレーション”月間なんで、CRKにゆかりがある(てか、現在番組を持ってる。)アナということで、元YTVの羽川英樹アナを取り上げようと思います。(彼に関しては、オイラは影で“ハネヒデ”って呼んでます。)
なんで彼は、CRKで週末のレギュラーをやっているのか?そして、どうしてフリーアナの道を選んだのか?その謎を解く“キーワード”とは…。(この写真は、今年の神戸まつりでのCRK関連のイベントでのひとコマ。この後、同年代の岩崎アナにツッコまれて会場は爆笑の渦に…。)

そもそもハネヒデは、最初からYTVに入社したんではなく、実は岡山県下の放送局から移籍したアナなんです。で、全国区で活躍する様になるのは、深夜番組“11PM”のYTV制作分でのレポーターとして登場する様になってからである。これ以降、YTVでは“全国ネット番組”といったらハネヒデの“独壇場”となった訳である。(ただ、早朝番組である“ズームイン!!朝”は、タレントの小林大作が関西エリア中継の担当をしていた。)そしてそれはまさに、彼自身にとんでもない“勘違い”を起こさせる遠因ともなった。(と、言っても過言じゃないと、オイラは思ってる。)
この当たり(80年代)からCRKは、ジャイアンツ戦をRFからネットしてもらう代わりに、NRNからの“脱会”を余儀なくされた時期でもある。そして奥田アナが抜ける(詳しくは“My favorite announcer”vol.3参照)という危機的な状況下であった。これを契機に、CRKと読売グループが“最接近”した時期でもあって、結構つながりを持とうとした時だった。そんな時に、あの番組が始まったのである。そう、“2時のワイドショー”である。この時、実は奥田アナとハネヒデは、この番組で接点を持つ事となる。この当時フリーになりたての奥田アナと、後によく似た事情でフリーアナになるハネヒデ。後々の事を考えると、ある意味“運命的”な出会いだったのかもしれない。
さて、40歳を目前にしたハネヒデに試練が訪れた。その当時のYVTは、ある程度の年齢(おおよそ40歳以上)になると、管理職に昇級できる代わりに、最前線からの事実上“引退”が宣告されていた。当然だが、ハネヒデもその時期に差し掛かり、人事からその事を告げられた。しかし、この時期のハネヒデは、かつての人気に溺れていて、この宣告を拒否したのである。そしてついに、フリーアナへと転身する事となる。(この時代、人気絶頂の看板アナが次々とフリーへ転身するケースが多発していた。)そしてハネヒデは、“全国区アナ”の看板を引っさげて、東京でラジオでの全国ネットのレギュラーを担当したのだが、なんせ初挑戦だった事もあって、結局は半年で終わってしまった。(ナイターオフ番組だったのも、不運の要因だった。)その失敗から、関西ローカルでの活躍をメインにせざる得ない状況が続いた。一番の不幸は、奥田アナから引き継いだ“2時のワイドショー”が、ほんの2,3年後に“放送終了”という憂き目に遭う。(正確には、東京の情報番組と“吸収合併”した。)こうして、彼は全国ネットのTV番組から姿を消した。“YTVの人気アナ”という“幻影”から目覚めざる得ない状況になったのである。
そんなハネヒデが覚悟を決めたのが、10年前のあの“阪神・淡路大震災”である。あの惨劇を目の当たりにして、“自分にできる事はなんだろう?”と考え始めた。そして、彼が出した結論は…。そう、神戸を拠点にして素直な自分に帰る事。その結論へ導く場所として、CRKのラジオ番組で“自分らしさ”を探す冒険を始めたのである。
同じ京都出身で、TVとラジオの違いはあるが同じ様に“カリスマアナ”として輝いていた者同志。その気持ちが、奥田アナ自身の“答え”でもあり、ハネヒデが代弁している部分でもある。あの時の“出逢い”がなければ…。