迷馬の隠れ家 はてな本館

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“祭り”と宗教儀式

昨日(更新が深夜になったんで、ついさっき)は大阪・富田林にてPL花火大会が開催された訳だが、この花火大会自身、PL(パーフェクトリバティ)教の大祭(確か、教祖の聖誕祭)ってのはご存じだろうか?案外知らないようだが、堺の大魚夜市も、そもそもは住吉大社大鳥大社の大祭に付随した魚市です。(事実、双方の神輿が大阪市堺市で“徒御”します。最近はトラックで流す程度ですが…苦笑)
そう、古くからある“祭り”(企業や自治体主催のパレード等は除く)は、地元の神社・寺院や宗教団体が執り行って来た“時節儀礼”が一般的に発展したモノです。

キリスト教徒なら、“クリスマス”や“イースター”がどれだけ重要な日であるか、知らないと恥である。(それぞれ、“聖誕祭”と“復活祭”である。)イスラム教徒なら、“ラマダン”がどんな意味か解ってなかったらヤバい。(これは単なる断食ではなく、ムハンマドの修行を追体験する儀礼である。)こういった“宗教儀式”は、本来はイベントそして大々的に執り行うモノではなく、各信者がその意義と自分を見つめ直す祈りを捧げる行為である。しかし、その“意義”を日本人ってのはなぜか、理解するより勘違いして嫌う風潮がある。占いだって、本来なら古代の自然崇拝的な呪(まじな)いが発展したモノであって、その進化の過程で“宗教哲学”も出来上がった訳である。従って、宗教の数だけ儀式があって、その中でも重要な儀礼がいつの間にか“一般化”するのである。
そりゃそうである。その度に“聖地”とされた地域に信者が一斉に集まる訳だから、そこで商売していたら儲かる訳である。そうなると、それ目的のイベントが付随して発生したっておかしくないんであり、それが“賑わい”の原動力となる。
だから、宗教が盛んになればなるほど、その付随イベントも盛大になる。例えば、天理教の“おちぼがえり”なる儀式も、月例祭の中では最大規模の“お祭り”であり、先出のPL花火大会もまた然りである。また、それを広く世間にアピールすることによって、信徒拡大の“手段”として利用されてきた部分もある。しかし、その宗教が形骸化し廃れていけば、付随のイベントだけが残って“祭り”のメインスタッフであるはずの信徒に代わって、自治体や町内会、さらには地域の商工会等が、そのイベントを“仕切る”様になり、最終的には開催の意義を忘れ去ってしまう。これが“祭り”の衰退を呼び、いつの間にかイベントそのものも消滅する訳である。
忘れてはいけないのは、どんなイベントでも宗教団体が関連している場合は、その信徒が仕切ってる時は内輪のイベントであり、その逆は宗教団体も衰退している訳である。それをマネしたり、無理に継続させようとしている団体がいるとすれば、“余計なお世話”というより、“考えが甘い”としか言い様が無い。大事なのは、信徒は真面目に信仰に基づいて儀式・儀礼をやる為に集まってるのであって、決して“商売”でイベントをやってるのではない。(てか、宗教そのものが“商売”となってる時点で、宗教の形骸化が問題なんだが…。)そこのとこを理解した上で、自分達の生活の一部にある“宗教”とつきあってもらいたい。