迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

本気で幸福を“科学”する話

タイトルを見て、某宗教団体を思い浮かべたそこのア・ナ・タ。オイラがどんなヤツで、なんでこんな言葉を使ったか、良〜く考えてみようね。そう、今回は“幸福”とは何ぞやという話です。
こないだの休みに、ふと見たTVで、何やら不穏な発言をしている痛いオッサンの映像が流れていた。話を聞いてみると、自分の“予言”が正確で、信じないと不幸になるなんて言っている。オイラからすれば、バカバカしい話である。なぜなら、その予兆を事前に他人に話して当たる確率は、枠番連勝複式馬券で万馬券を当てるより低いからだ。第一、誰にでも“虫の知らせ”等の類いでの予兆は、感じ取ることぐらいはできるが、それを確信できるのは、その事柄が発生してから気付いて言えるのであって、発生する以前から結果が分かるというのは、大概は“八百長博打”みたいなモンである。そう、そういう“不安要素”で煽ってるだけで、結果的にその情報を鵜呑みしていたら、イイ様に振り回されるのがオチである。

テロにしても、反感的な感情にしても、その根源には自分ではどうすることもできない“不安”がある。そこから“逃げる手段”として、強い口調で理想や発言を繰り返す輩を信じてみたり、落ち込んだ挙げ句に暴力で他人に自分の“痛み”を訴える等、とにかくジタバタする訳である。しかし、自分一人がそれで“逃げる”事ができて、それを“幸福”というなら、それは大きな間違いである。なぜなら、それで“幸福”を奪われた他人は当然だが相手を怨む訳だし、また、そのしっぺ返しから逃れる為にコソコソと逃げ回らなければいけなくなる。
仏教上における“六道輪廻”(ろくどうりんね・りくどうりんねともいう)とは、まさにこの事を一言で表した“現象”である。これを断ち切る為には、それこそあらゆる宗教上の“修行”をやりこなさないといけない。てことは、当然だが何度も生まれ変わって修行して…の繰り返しをしないといけない訳だから、途方も無い訳である。
けど、それを“回避”できる方法が無い訳ではない。しかしその方法は、おそらく実践しようものなら、相当なる“覚悟”が必要となる。通常の人間なら、この言葉で諦めて落ち込むんだが、学会員みたいな“楽観主義者”なら、むしろ“受けて立つ”くらいの意気込みで実践を試みる。この様子を見た部外者なら、当然それは“異質”に見える訳で、罵声を浴びせかけるのも無理はない。が、その時点で決定的な勝敗が着いてしまうのだ。そう、どんな結果になっても、自分を含めた多くの人々を救おうと行動した心意気と信念は、“法華経の行者”の姿であり真の“幸福”を知り得た者…つまりは“成仏”の姿なのだ。実は“成仏”とは、死んだ人の魂が昇天し浄化された状態ではなく、法華経(この場合は教典の事ではなく、生命そのものを写し出した姿。)を受持し実践してみせた“生き様”を指すのだ。だから、本当の“幸福”を願いたいのなら、自分の生きる為の“闘い”から逃げてはいけない。
どんな不安があったとしても、甘い考えに世間の風潮に振り回されてはいけない。だからこそ本物の“勇者”となる為に、あらゆる情報を分析する力や冷静にモノを見る目が必要なのだ。それを養う為には、常に世間から離れず、その真っ直中で自分が感じた事、五感に触れた事柄を受け止め、それを話していくしかない。だからオイラもこのBlogを通じて、オイラなりに感じた哲学を書き綴ってる。たとえ読んでくれなくても、本当に“答え”を求めて彷徨ってる人がいる限り、獅子吼していくのがオイラの使命と思って行動するまでなのだ。本気でみんなが幸せになってほしいから、オイラはオイラの戦い方で今日も生きていく。