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あどランアーカイブ その7(“あどラン”誕生秘話と努兄の思い…)

久々に“あどラン”ネタです。今回は、“あどラン”の誕生までの話と、努兄がこの番組に込めた“思い”について、オイラの推測と“あどラン”本一冊目(こちらあどりぶランド)と二冊目(まるのまんまあどりぶランド)に書かれている事をちょっとまとめておこうと思う。
“あどラン”が始まったのは1984年1月25日だが、その数年前(数カ月前かな?)、MBSにとって、重大な局面を迎えていた。腸捻転ネット(昔はJNN系ではなく、ANN系だった。先にOTV時代から引き継いだABCがTBSとネットを結んでいた為、後発となったMBSは後のテレビ朝日とネット関係にあった。)が解消して以来、深夜枠の番組がことごとく不振に喘いでいたからである。ただでさえ朝の番組が好調とはいえない中健闘していたのに、TBSの方針に振り回され気味で軌道に乗り切れない状況下だった。(現在でもそうだが…。)

そもそも“あどラン”は、深夜番組の“つなぎ”として誕生したって事をご存じだろうか?元々MBSは深夜時間帯の番組が脆弱で、どんな内容の番組でも半年持てば“上出来”とされていた。(TV免許取得時に、教育系TV局としていた為、下ネタやゴシップ系の番組は制作できなかったし、YTVで放送していた“11PM”の視聴率が良かった為、どんな番組を作っても3ヶ月で“放送終了”せざる得なかった。)
そんな折、ある日の千里丘スタジオ(当時はここで、東京支社制作以外の放送を全て制作していた。)の男子トイレで、努兄と制作部のスタッフが偶然一緒に居合わせた。その人はその当時の“不毛地帯”だった深夜番組枠に、何か新しい企画の番組を制作したくて悩んでいた。そんな悶々とした様子を見ていた努兄が、その人の相談を聞いてこう、即答した。「だったら、アナウンサー全員参加の番組を作ればイイじゃないか。」
その答えを基に、その人は制作会議にこの案を提出した。が、この当時の制作局スタッフは、企画の内容を吟味するどころかあっさりと“却下”したのである。その理由が、“アナだけで視聴率が取れるハズが無いから”であった。
当時から“アナウンサー”という“声の職人”は、放送局にもよるがかなり“冷遇”されていた。つまり、この時代(70年代後半から80年代初頭)からTV出演を専門とするタレントが大挙としてデビューした時であり、ラジオで人気を博した若手の地方局アナが、その勢いだけでフリー化した時代である。当然だがタレントが番組を仕切る番組が増えれば、局アナを司会に抜擢する番組は不要であり、特殊技能を必要とするスポーツアナ(特に競馬や相撲)以外は、リストラの対象となり得る状況下だった。MBSも例外ではなく、アナウンサーの数をかなり減らす計画が進んでいる最中での話だった。
つまり、努兄もこの時は既に全国ネットから姿を消し、“あの人は今…”状態だった訳であり、彼なりに焦っていた時期でもあった。そんな努兄の企画だったからこそ、バカにされてたのだ。だが、一部のスタッフには、好調期のMBSにおける“柱的存在”のアナが、久々に本気モードで仕事しようとしている気配を感じ取っていた。と言うのは、アナウンサー室の面々が、企画を出す度にどんどん“結束”していく様になってきたからである。しかも、アナの総纏め役である室長自らが、努兄の意見に積極的に乗ったから、その勢いをとめる術は、制作局にはすでになかった。そう、努兄のアナの概念に対しての改革を求めた“情熱”が、MBSの番組制作スタッフを揺り動かし、ついに水曜深夜11時35分からの1時間枠で放送する事が決定した訳である。
努兄がこの番組に懸けた思い、それは“放送局在籍のアナウンサー個々の可能性”を発掘すると同時に、“良い番組を作るのに、アナもタレントも関係ない”という事を実証したかったのではないかと思う。事実、この番組は14年2ヶ月続いた訳だし、平均視聴率も10%台とまずまずだった。そして、CS放送GAORA”(MBSの子会社みたいなCS放送局)で全国に知れ渡った影響力は、現在でもネット上で健在である。そして、その思いは現在の肩書き…羽衣国際大学メディア情報学科教授として、若い世代の育成へと続いているのである。