迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

My favorite announcer (vol.8)

今月の“My favorite announcer”は、いろいろ取り上げたいアナがいる中で悩んだ結果、去年KTVを定年退社し、現在もタフに担当レギュラー番組をこなす桑原征平アナを取り上げる事にします。きよぽん(“My favorite announcer vol4”参照)がKTVの看板競馬アナなら、征平タン(関西の桑原アナファンなら、なぜか“ちゃん”か“タン”を付けて言う。)はKTVの“パフォーマー系アナ”といった感じである。関西弁(征平タンはバリバリの京都人。そういや、この“My favorite announcer”シリーズは京都出身アナを取り扱う機会が多いなぁ…。)でガンガンしゃべり、やる事なす事全て体当たり。とてもじゃないが普通のアナじゃなく、“果てなく芸人に近い”KTV名物アナだった彼。いったい、どんな理由でこんな“場違い野郎”と化したのやら…。

元々はアナとして放送局に入社したのではなく、最初は水球(“FFX”でも主役がやってたスポーツの原型。“水上の格闘技”とも言われ、ボールをプール上のコートでフットサルorハンドボールみたいに戦う競技。)の選手兼サラリーマンとして大阪の商社で働いていた。が、入社二年目の健康診断で、肝臓の機能が低下してる事が判明し、泣く泣く選手生命にピリオドを打った。中学・高校と水泳選手として京都中に名を馳せ、大学時代は二人の兄(征平タンは3人兄弟)と同じ水球選手として活躍し、その実績から将来を有望視されていただけに、その会社にも居づらくなって退社した。なんとか再就職先を探そうとジタバタしてた時に、新聞にKTVの求人があって、その謳い文句“おしゃべり好きな人、募集中”に惹かれて、アナウンサー試験を受けた。
晴れて入社が決まったのはいいが、アナの基本である標準語がまったくしゃべれず、ナレーションひとつも使い物にならない“不良品”扱いを受け、ついには公開番組の“前座”をやるハメになった。(本来は若手芸人の“バイト”であって、正社員であるアナの仕事ではない。)
この当時、アナにとって“関西弁”は禁忌とされていて、関東(特に東京)出身のアナは大阪でも重宝されていた時代である。だから征平タンも一生懸命、標準語をマスターする為に先輩アナの話し方や、同期で東京出身の杉山アナ(通称、おすぎさん。“エンドレスナイト”のファンならご存じの“あの方”です。)の発音をメモってはマネる練習を密かにやっていた。
しかし、関西の芸人にとって“標準語しかはなせない”アナの存在は、関西弁による話芸を主とする彼等にとってやりづらい相手だった事もあり、征平タンの“関西弁丸だし”な前座は、場を和ませるだけでなく好印象に映ったのである。また、関西の企業も、前の職場である営業で培ったであろう絶妙な間合いの話術にハマり、次々と征平タンが前座を担当していた番組にスポンサーがついていったのだ。やがて、芸人達からも、“征平タンと仕事がしたい!”という注文が出る様になり、ついに関西限定メジャーデビュー(?!)となったのである。(ちなみに同じ東京出身でも、努兄は別格。関西弁に対し、英語で返す頭の良さが、かえって関西人にウケた。)
そんな征平タンが桂米朝師匠(現在では上方落語の重鎮)の補佐役で出演する事となった番組である年、阪急(現オリックス)vs広島の日本シリーズが行われる事になったのを受け、特集を組んだのだが、その際に“トンデモない事”をやらかしたのである。その当時は現在ほど情報が広範囲で伝わるほどメディアも発達していない。ゆえに広島で“阪急の野球帽をかぶって取材をする”という事は、かなり無謀な話であった。それをマジでやっちゃったのである。(当然だが、広島ファンからヤジられた。)これがTVを見ていた関西の視聴者にウケて、以後“征平の挑戦”というタイトルで番組内の名物コーナーとして定着していったのである。(ライオンに噛まれかけたり、トドに乗っかかたり、人間バズーカ砲にされたり…)元々、体力に自信があった征平タンだからできた話だが、本来ならアナがやるべき仕事ではない。が、征平タンにはどうしても“このアナにだけは勝ちたい”と思ったアナウンサーがいた。それが努兄である。
征平タンがデビューした頃、努兄は既に全国区の“スターアナ”として君臨していた。また、スポーツ中継でも活躍していた為、そのマルチぶりは他のアナの“あこがれ”でもあった。だからこそ、征平タンは努兄じゃできない様な方法で全国区を目指した。その実力は後に、CXフジテレビから“出向”の要請となってかえって来たのである。
CX出向中、いくつかのタレント事務所からフリー化の話が持ち出された。(東京の放送局へ“出向する”ということは、東京でタレント化or独立をするチャンスでもある。)しかし、話が出る度に征平タンは断った。理由はカンタン、“ボクはKTVのアナであって、CXのアナじゃないから”である。地方局の人気者アナは、こんなオイシイ話を断る様な事はしない。(話が来るだけでも、ありがたい話である。)しかし、征平タンは再就職先として受け入れてくれたKTVに対する恩を、最後まで貫き通したい気持ちがあった為、そう答えたのであろう。
そんな頑に“アナとしての操”を守った征平タンに対し、KTVが出した答え…それが定年退社を会社全体の“お祭り”にして“第二の人生の門出”を祝ったのである。入社した当時は“不良品”とまで言われた“アナウンサーのヘレン・ケラー”は、いつしかKTVにとってかけがいのない“バラエティーの柱”となっていた。そして、FNS(フジネットワークサービスの略、つまりFNN系)に多大な影響を与え、しがない大阪の放送局を東京以上に権力を持つ存在に変えた。その恩恵は、はかり知れないものだった。だから、征平タンの“局アナとしての最後の我侭”を一つの番組として放送したのである。(後日、その番組はFNSの評価で作品賞を取った。)たった一人のアナでも、放送局の価値観を変える影響力を持つ事を証明したのが征平タン自身であるのはいうまでのない。けど、それ以上に征平タンの思いを最後まで受け止めたKTV自身にも、拍手を送りたいものである。