迷馬の隠れ家 はてな本館

旅好き・馬ぐるみゃー・オジアナヲタクな主婦の、雑多なコンテンツですw

有名“ブランド”だからと甘えるな!

駒苫の“事件”といい、自民党の“党内分裂”といい、どうも自分達が所属してる“ブランド”名に甘えてるバカが、世間の空気を読めずに暴れていて、オイラ的に不愉快さを覚えるのである。名のある“ブランド”とは、決して最初から“有名”であった訳ではない。世間一般に広く評価されるまでに、ありとあらゆる批判を受け、いかにしてファンの前で、あるいは顧客ひとり一人に答えていくかを、常々研究し努力してきたからこそ、現在の“名門”ともいえる地位を築く。つまり、過去の気の遠くなる様な試行錯誤の結果から生み出されたのが“伝統”であり、その努力に対して多くの人々が支持してくれたから“ブランド”として、その名前は語り継がれるのである。

そう、自分達もその歴史の一部分を担ってるのであって、“主人公”になれなくても“意味ある存在”には変わりないのだ。しかし、歴史に名を残せるのは、幸か不幸かごく一部の“頂点”にいる者達だけで、他の人達は余程の事がない限り、忘れ去られてしまうのが現実である。
“主役”じゃないから実感しないのだろうと思うんだが、主役を張る人々は、そのサポート役や家族にまで気を遣い、また、一緒に戦ってくれる仲間として感謝してるのである。だから表舞台にはその人ひとりの事しか書かれてなくても、影の部分で支えてくれた人々も一緒に讃えられているのと同じなのである。本物の人格者とは、決して自分一人の努力ではない事を悟り、一緒に参加してくれた多くの人々に感謝する。そして、その思いを受け止めた人の数だけ“カリスマ性”が増し、やがては大きな勢力となって世界を変革していく。
しかし偽物は、どういう訳か自分を見失っていて、やたらと世間に受ける為“だけ”の表面的な部分のみの“真似事”しかできない。だから、真実を探られるのを嫌って、過去を偽り虚勢を張る。さらには証拠を隠滅し、相手の人間性を突いて悪口雑言を繰り返し、自分以外の人間を信じようとしない。ゆえに、孤独であり哀れである。
真贋を見極めるのは難しいが、自分が信じてる者がたとえ“裏切り者”になったとしても、自分からはその人を見捨てず信じ続けてやる技量があれば、おのずと向こうから“降伏”を申し出るモノである。つまり、それが本物の“友達”であり、そういう人に対して自分の方に非があるなら、自然と謝罪の気持ちが生まれるモノである。また、支え合って初めて世間というのは成り立っているのだから、それを忌み嫌うなら、自らがその場を去れば良いのである。
自民党の各都道府県連の支援者は、長年にわたる“政権政党”という“ブランド”に甘えているのであって、執行部の後々の事を考えた“苦渋の決断”に対して文句をたれるのは、お門違いな話である。不満があるなら、どうぞ新規開業の政党の支持でもやって下さいな。自分達が守るべき場所は何所なのか、見失っているんなら、ちょっとは公明党の“戦い方”でも見習いなさい。衆・参両議員候補を擁立する際に、比例区と選挙区の候補を別々でやるのは、ただ単に議席が欲しいからではなく、政治を行うのにズルまでして議員になる様な人に、責任ある職務を任せるわけにはいかないからだ。だから、支持母体でもある創価学会の人間は必死になって選挙に対して、その重要性と“声の重み”をひとり一人に説明しているのだ。決して生半可な覚悟だけで、世間と闘ってきたのではない。あらゆる組織・団体の“栄枯盛衰”を知ってるだけに、その轍を踏まぬ為の“戒め”なのだ。だから、強い。
どんな政党でもそうだが、根本的に“自分達はこの国の為に何をするべきか?”を忘れ、個々の私欲で政治を行おうとする。だから、平気で“政権交代”だ、“悪性政権打倒”だとかぬかす。自分達をサポートしてくれてるのは、何所まで行ってもこの国に住んでる“庶民”なのであって、その“庶民”に対して感謝の意を示さないのなら、政界から去るべきである。自分達の“戦場”がそこならば、真剣に庶民と“討論”するぐらいの覚悟で戦うべき。肩書きやブランド名に“甘えた態度”をとって選挙に臨むなら、敗北は“必至”だと思え。大事なのは選挙の当落ではなく、“本気で日本を改革する”思いだ。それが伝われば、必ず世間は味方してくれる。それが、時間と根気がいるけど、確実に“革命”を成功させる唯一の方法なのだから。