迷馬の隠れ家 はてな本館

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“平和維持”と“終末思想”のキーワード

“世界平和”と一口に言っても、宗教や民族等の“他人”との違いがある限り、その考え方や理想とするスタイルは様々。しかし、どういう訳か“終末思想”というヤツだけは世界共通の様でして、自分達の何かが“滅亡する”という概念は、どうやっても拭いきれない。なぜなら、大概の場合は“自分本位”での“平和活動”を展開し、それが“世界共通”の考えと思い込んでやってるからであり、風土や文化が違えば通用しない事がわからないらしい。
つまり、どんな“思想”も自分とその周囲を“救う”事はできても、森羅万象すべてを納得いくカタチで“救済”することは、不可能(に近い)という事だ。ゆえに、滅亡を恐れた末の“終末思想”に陥りやすいという事だ。では、なんで人々は“滅亡”を恐れているのだろうか?

以前、このBlogで触れたとは思うが、オイラは短大時代に歴史(主に日本史)を専攻していた。そのせいもあって、あらゆるもモノの“歴史”に興味があり、時折だがそれを調べる事がある。おおまかに言うと、歴史を“勉強する”とは、過去の出来事を正しく認識し、未来を予測する為に役立てる為の知識を得る事と、オイラは思っている。実はオイラと同じ事を考え、実践した人物がいる。オイラが“学会員”である事をわかる人なら理解できるだろうが、日蓮という僧侶(本来なら“日蓮大聖人”とするべきではあるが、学問として一般的な“歴史”での表記で失礼する。)が時の権力である鎌倉幕府に対して提出した“立正安国論”(“りっしょうあんこくろん”と読む。正しき教えを立てて、国を安定させる為方法を解いた論説文)は、実はあらゆる経文やそれに付随した論文等に書かれた“史実”を基に、日本はどうあるべきかを書き記した。しかし、この論文を提出した当時は、無名の“仏門の異端児”だったために、迫害を受けるハメになった。が、歴史というのは面白いモンで、この“忠告”をバカにした事で、鎌倉幕府だけでなく、当時の庶民も何度となく苦しい思いを延々と繰り返すハメとなった。
つまり、“終末思想”とは、当然だと思ってた“平和”な生活が一瞬にして消えた事から始まる“不安感”から発生する“失望感”であり、ゆえに自分以外の“幸福”を妬んだ、“歪んだ心理”である。
そのきっかけが自然災害であったり、資源の枯渇であったり、様々な“理不尽な不幸”だったりと様々だが、それ故にあらゆる事に対して臆病になり、結果その“閉塞感”からいち早く脱したいが為に焦り、ついには他人をなんだかのカタチ(心理的or物理的に)で“傷付ける”行為を取る訳である。
そう、“終末思想”とは、生命体である以上避けては通れない“死への恐怖”が膨大に膨れ上がった“化け物”である。
戦争(国際的な紛争)がなかなか終結しない背景に、自分達が“滅亡する”という概念がある様に見える。しかし、滅んでいるのは“史実”の上では国という“枠組み”だけであって、その中で生活していた庶民までは滅んでいない。そう、“国”という枠は生活する庶民があってこそ初めて“国”となる訳であって、勝手に地球の上を線を引いて作った訳じゃない。しかし、残念な事に、近年の“国”は全て一部の人種が“我が物顔”で国境を引き、その“境界線上”の下にある資源や恵みを“奪い合う"世界となってしまった。
ゆえに、何か問題が起きると“また○○か…”とか、“黙れ、××人め!!”等と罵り合い、結果的に双方“滅亡”とう最悪なシナリオとなる。だからこそ、大切なのは互いを理解し合う為の“対話”なのである。その“対話”の席において、双方にとって決して有益ではなくとも、公平に“話を聞く”という姿勢が必要となる。自分が、あるいは相手が一方的にマシンガントークをする様では、“対話”とはならない。気が遠くなる様な事だろうけど、ほんの少しだけでも相手を“理解する”ために必要な事を避けている様では、どんなに自分達の主張が正しくても、それ故に“悪”となる。
そういう意味では、“楽天vsTBS”の問題は、双方にとってこれ以上続けると、ファンや利用者、さらには支持者から“嫌われる”事となるだろう。意見が煮え切らない相手なら、手を引く事もひとつの手段だし、市場取引のルールに従ってる以上は、どんな事をされても文句が言えないのは当然である。ならば、自分達の襟を糺し、相手の意見を聞いて、それから反論すべきであろう。