迷馬の隠れ家 はてな本館

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“国”とは誰のもの?

宗教団体に所属してる以上、その内部での“ルール”はある意味“絶対的”な拘束力を有する。が、それはあくまで、“宗教”という名の団体行動を行う時に有効であって、そんなに親しくもない人間に対して強要をするのは、憲法が保証する“信仰の自由”を著しく踏みにじる行為である。ゆえに最近の創価学会の勧誘方法も、頭ごなしの“宗教批判”の暴言で脅すのではなく、あらゆる知識をフル活用した“対話”がメインである。(一部、古株の学会員の中には、未だにそういった“暴言”を正当化する方もいる様だが…。)
憲法論議でもそうだが、昔“三島由紀夫自決事件”なる騒動があったらしいが、最近になってその“三島草案”なる文章が公開されたそうな。報道でチラっと報じてたのを見ただけだが、彼の考え方は“大日本憲法”の改造版で、一番大事にしないといけない“国民”に対する扱いが、オイラからすると戦争の“捨て駒”っぽく感じた。どうやら、軍服への“憧れ”が先行し過ぎて、肝心な“国を守る”という本分を履き違えてる様な気がする。では、なんで彼は、ここまで“荒々しい”憲法を作ろうとしたのだろうか?

“戦争”と“平和”を考える時、大事にしなければいけないポイントが3つある。ひとつは“国を守る”ために何をするべきか?ふたつ目は“国にとって“何が優先すべき“事情なのか?そして最後に、いかにして“国の損益”を最小限に食い止めるか?この部分である。
“国を守る”と言っても、軍事力(防衛の為に必要となる兵力)を単純に上げる事は簡単である。が、だからといって過剰な軍備は、かえって国際社会では“敵”と見なされる可能性もある。現在の日本国憲法第9条の“戦争放棄”とは、隣接する国家も日本に対する武装を“解除”して、初めて意味を為す訳であり、現在の様に近隣各国が“核兵器”配備や兵力増強”を続けるなら、むしろそれが原因で“国民を守れない”というハンデを背負うことになる。事実、かの国との“交渉”は、拉致被害者だけでなく、かの国の“国民”も“人質”にしてやってるという認識で臨まなければ、また無駄な“支援名目”で税金が出て行くだけになる。
国家が守るべき“優先順位”は、この国に住む“住人”すべてであり、その際に国籍や身分で扱いに差が出てはいけない。が、悲しいことに、今の段階では在日外国人(特に韓国・朝鮮籍中国籍)は、まず救済条項から“除外”される可能性が高く、次に被害が出るとすれば、沖縄県と北海道の住人だろう。なぜなら、かつての太平洋戦争で、真っ先に国家から“見捨てられた”のは彼等だからだ。(正確には、“満州国”移民と太平洋上の島々に移住した日本人は、ある意味沖縄同様に見捨てられた。北海道本土はギリギリ無事だったが、“北方領土”と南樺太ソ連侵攻時に、見捨てられた。)
“国の損益”を最小限に抑えるためには、何をするべきか?実は意外かも知れないが、広島と長崎に原爆が落とされる前に、昭和天皇は敗戦を受け入れる構えをしていたそうな。しかし、軍部(陸軍強硬派主体)が支配していた議会では、天皇の“国民を思っての停戦の意志”を踏みにじった。その結果、あの“惨劇”を受けるハメとなった。
つまり、戦局が長期化しそうになったら、たとえ自分達が優勢であっても“撤退”を行うことも必要である。“国民”がいる限り、国はいずれ“復活”する。が、肝心の国民が“全滅”してしまえば、たとえ“国土”は守れても復興することは不可能だ。“外見上のチカラ”は所詮、破壊はできてもその先はない。大事なのは、自分達の国に対する“思い”であって、そこから生まれた“愛国心”は、決して恥じる事はない。むしろ、罵るヤツは罵ってたらいい。でも、それ故に自分が傷付く事も忘れてはいけない。
三島由紀夫も、そういう意味では自分なりの“愛国心”ゆえに、自衛隊に対し“クーデター”を呼びかけ、“世界最強の日本”復活を夢見たのだろう。しかし、“憂国”の思いはその当時の人々には通じなかった。かわいそうだけど、オイラもそんな“チカラだけの論議”に甘えた彼を、未だに“白い目”で見てる人間だ。それどころか、おそらく目の前にいたら、“御書”を片手に小一時間、説教してるでしょう。(苦笑)